
■第4回 金賢姫へ手紙
■第3回 加害者扱い
■第2回 ベビーホテル
■第1回 金賢姫の教育係
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2002年9月の日朝首脳会談で「死亡」とされた安否未確認者。だが、北朝鮮側のずさんな発表内容に、家族は不信を募らせ、真相解明を求めている。今シリーズでは、母が佐渡出身の田口八重子さんを皮切りに県外安否未確認者を取り上げ、家族たちの生存を信じ「今も待っている」思いを描く。
| 第4回 金賢姫へ手紙 | (2004年04月30日掲載) |
母の思い出聞かせて

アパートの友人たちと家族ぐるみでパーティーを楽しむ田口八重子さん(左)が、長女(手前中央)や長男耕一郎さん(右)に優しくほほえんでいる。だが拉致は、こうした笑顔を奪っていった=1977年8月、埼玉県川口市
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1978年に拉致された田口八重子さんの長兄、飯塚繁雄さん(65)は、大韓機爆破事件の実行犯、金賢姫(キム・ヒョンヒ)元工作員の手記「忘れられない女」(97年、文藝春秋刊)が、心の救いとなった。
八重子さんは、81年7月から83年3月まで金元工作員に日本語などを教えた「李恩恵(リ・ウネ)」とされる。
手記によると、北朝鮮で暮らす八重子さんはわが子の年齢を指折り数えていた。さらに「遊んでいた3、4歳ぐらいの女の子を長い間じっと眺めた」「ひざまで届く大人のランニングシャツを着た子どもの姿がとてもかわいいと言うのだった」−。
繁雄さんは初めて読んだとき、失踪(しっそう)直後にベビーホテルに長女(28)と長男の耕一郎さん(27)が残されていた光景がよみがえった。
「かつて『夜の仕事をしていた女だから、子どもを見捨てたんだ』という中傷もあった。だが、八重子は異国で子を思い泣いていた。悔しく、悲しい話ばかりですが、わずかに喜びと希望を持てた」
耕一郎さんも最近、勧められて読んだ。印象に残ったのは、八重子さんが貴重な品々やお金を周囲に分けたり、貸してあげていたという内容だ。
「あれほどきつい状況下で、母は人に対して温かい気持ちを持ち続けていた。うれしかった」
その後、耕一郎さんは、ソウルで暮らす金元工作員あてに思いをつづった。「自分の中で、今も母の像がはっきり描けないでいる。お会いして母の記憶の一つでも二つでも聞きたい」。2月に手紙を外務省に託した。返事はまだない。
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2002年9月17日の日朝首脳会談。八重子さんは北朝鮮発表で「死亡」とされた。繁雄さんは「正直、20年以上何もなかったから、いい結果は出ないかもしれないと半分は覚悟していた」と回想する。
北朝鮮側の死亡情報によると、「死亡日」は大韓機爆破事件の前年86年7月。84年に20歳近く年上の拉致被害者原敕晃(ただあき)さん=80年失踪当時(43)=と結婚、その2年後に交通事故死。墓もダム決壊で流れたという。
政府調査団には「李恩恵なる日本人女性はいない」と説明。大韓機爆破事件ですら「でっち上げだ」との立場を崩していない。
こうした死亡情報のたびに繁雄さんは「今も生きている」の確信を深めた。不自然な点が多い上に、骨もなく、死亡した物証は何一つ残っていないからだ。
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3月初旬、東京・築地の料理店。公の場で訴えていく覚悟を決めた耕一郎さんは、家族会のメンバーと顔合わせをした。
現在、情報技術(IT)関連会社の技術者として多忙な毎日の耕一郎さん。会食の際、横田めぐみさんの母早紀江さん(68)にかけてもらった言葉が心に残る。
「一緒に行動してくださるのは心強い。ただ、若い方がすべてを(救出活動に)費やしたら、これからの仕事や生活にまで影響が出るかもしれない。(参加は)できる範囲で、いいのですよ」
言葉の端々に、いたわりが感じられた。耕一郎さんは「高齢の身であれだけの苦労を重ねながら、まだ周囲に優しさを分けている。すごいな」と驚嘆した。
繁雄さんからも「おれが死んだら後は頼むぞ。いや待てよ。その前に解決しなくては」と冗談ともつかない激励を受けた。この日は、耕一郎さんにとって心温まる宴(うたげ)となった。
今後も突然、どこかから何か新しい話が入ってくると耕一郎さんは信じている。自分に何ができるかは分からない。だが、小さな一歩を重ねようと思っている。 (おわり)
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