直江兼続とは

直江兼続(なおえかねつぐ)

 永禄3(1560)年、越後上田庄(南魚沼市)の坂戸城下で、坂戸城主・長尾政景の家臣、樋口惣右衛門兼豊の子として生まれた。幼名は与六。政景の妻の仙桃(洞)院に見込まれ、その子の景勝に仕えた。景勝が謙信の養子になると、ともに春日山城(上越市)に入る。謙信没後の御館の乱で景勝を勝利に導き、上杉家執政に就いた。上杉家重臣・直江信綱の妻であったお船と結婚、直江家を継いだ。主君景勝とともに謙信の教えを守り、義を重んずる治世を行った。秀吉によって景勝が会津に移封されたのに伴い、兼続も米沢城主となる。徳川家康に謀反の疑いをかけられた際に、上洛要求を拒んだ書状「直江状」が有名。景勝が米沢へ減封となった後も上杉家の治世を支え続けた。元和5(1619)年、60歳で死去。

上杉景勝(うえすぎかげかつ)

 弘治元(1555)年、坂戸城主・長尾政景の子として生まれた。母は上杉謙信の姉の仙桃院。幼名は卯松、元服して喜平次顕景と称した。父の政景の死後、謙信の養子になる。謙信の死後、後継者争いの御館の乱に勝ち越後国主となった。織田信長の越後侵攻をしのぎ、秀吉に臣従。豊臣政権の繁栄に貢献したことで、会津120万石という屈指の戦国大名の地位を確立した。秀吉の死後、武門の意地を貫き徳川家康に服従を示さなかった。関ケ原の戦いの後、米沢30万石に格下げされたが、兼続の支えを得て上杉家を守り抜いた。元和9(1623)年、69歳で死去。

上杉謙信(うえすぎけんしん)

享禄3(1530)年、越後守護代・長尾為景の子として春日山城に生まれた。幼いころ林泉寺に預けられ、文武両面にわたり厳しく養育された。15歳という若さで栃尾城での初戦を飾り、軍才を発揮し始めた。兄の晴景の譲りを受け守護代となり、春日山に登城。守護上杉定実の死去によって名実ともに越後国主となった。のちに上杉憲政から上杉氏の家督と関東管領の職を相続した。動乱の戦国時代を生き抜き、幾度となく関東出兵を行ったが領土拡大のための戦いはせず、生涯「義」を重んじた。天正6(1578)年、49歳で死去。

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