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[天地人ゆかりの旅]高田(上) 徳川の城普請に参加〔2009年06月25日〕
[天地人ゆかりの旅]高田(上) 徳川の城普請に参加

1993年に上越市発足20周年を記念して復元された高田城の三重櫓(やぐら)=上越市本城町
春には約4千本の桜が咲き乱れ、上越市民に親しまれる高田公園。約50ヘクタールの広大な敷地のほとんどは高田城の跡地だ。
高田城は、徳川家康の六男、松平忠輝(ただてる)の居城として1614(慶長19)年に築城された。その工事には米沢藩の上杉家の家臣も参加した。その中心人物が黒金泰忠(くろがね・やすただ)だ。
高田城築城は「国役普請(くにやくぶしん)」と呼ばれる国家事業。忠輝の義父、伊達政宗が総監督として高田入りした。
工事には東北、北陸、信濃などの13大名が参加。藩主自ら高田に入った藩もあったが、上杉景勝と直江兼続は泰忠を送り込んだ。
会津松平藩の会津旧事雑考(くじざっこう)などによると、泰忠は若松城に代わる居城として1600(慶長5)年に着工された神指城(こうざしじょう)で、実質的な工事責任者「割奉行」を務めた経験があった。
神指城を研究する会津若松古城研究会会長の石田明夫さん(51)は、この工事で真北を正確に調べるなど高度な測量術が駆使されたことを例に挙げ、「泰忠は新たな技術を正確に受け入れ、兼続にも信頼された築城のプロだった」と人物像を描く。
上越市公文書館準備室学芸員の福原圭一さん(41)も「国役普請は本来、藩主や家老が出向く。代理でも身分の低い人物は認められないことから、泰忠は土木だけでなく、外交分野でも一定の力のある人物だったと思われる」と推測する。
泰忠が越後入りしたのは1614年春。春日山城はその7年前に廃城となっていた。忠輝の前にこの地域を治めていた堀氏が現在の直江津に福島城を建築したことに伴うものだった。
かつての敵、徳川の居城建設のために派遣された泰忠は、主のいない春日山を見詰め、何を思ったのだろうか-。
2009年06月25日
[天地人ゆかりの旅]高田(下) 越後が誇る「義」の心〔2009年06月26日〕
[天地人ゆかりの旅]高田(下) 越後が誇る「義」の心

市街地の後方に広がる高田公園。上杉の文化を受け継ぐ高田城があった公園は、市民の憩いの場となっている=上越市
高田城築城直前の1613(慶長18)年、直江兼続は江戸詰めの長男景明(かげあき)に米沢の近況を知らせる2通の書状を送っている。
「来年は越後に普請があるため、江戸に来なくてもよいと命が来て、皆喜んでいる」「来年に備え、ことしはゆっくりと過ごしている」。書状からは故郷での大工事に対する兼続の関心の高さをうかがうことができる。
小説「天地人」では、この強い思いを象徴するかのように兼続は高田を訪れ、伊達政宗と邂逅(かいこう)する。
兼続が高田に来た記録はないが、作者の火坂雅志さん(53)は「兼続にはもう一度、越後に行かせたかった」と語る。
火坂さんによれば、徳川家康は上杉が生み出した文化や経済の力を恐れていた。その力を取り込もうと、六男忠輝を送り込み、高田城を築城した。
上杉が越後を治めた期間は、謙信が戦乱を鎮めてから、景勝が会津に移封されるまでの約50年間。高田城築城を最後に上杉の名は上越地域から姿を消した。高田藩は幕末まで徳川家ゆかりの家臣や親族が治めた。
しかし、以降も上杉家を主人公にした軍記物が書かれるなど、越後での上杉の人気は根強い。そして、上杉の文化を受け継いだとされる高田城は今も上越の人々から愛されている。
火坂さんは「戦国時代は中央集権ではなく、地方が輝いていた時代。繁栄した時代の記憶が連綿と現代につながっている」と語る。
何よりも「利」を捨て「義」に生きる謙信や兼続の姿は、私たち越後人の大きな誇りだ。上杉の「義」の心はこれからを生きる私たちにとって、道しるべとなっていくに違いない。
2009年06月26日
(天地人ゆかりの旅は今回で終了します)
[天地人ゆかりの旅]米沢・山形(1) 三成敗北知り撤退戦〔2009年06月16日〕
[天地人ゆかりの旅]米沢・山形(1) 三成敗北知り撤退戦

上杉軍本陣跡の菅沢山から見た長谷堂城があった城山(中央)=山形市菅沢
石田三成の挙兵で、一度は会津へ向かった徳川軍が西に取って返した1600(慶長5)年9月、直江兼続率いる上杉軍は、徳川方についた山形城主・最上義光(よしあき)の領地に進軍した。山形城を目前にした同月14日、長谷堂(はせどう)城への攻撃を開始し、「出羽の関ケ原」とも称される「長谷堂合戦」が展開された。
兼続が本陣を構えたのはこの城から約1キロ、山形城から7キロ離れた菅沢山。上杉軍は2万、対する最上軍は6千とも8千ともいわれる。
草が生い茂る上杉軍の本陣跡。菅沢山から同城に続く平地は、ほ場整備が進み、整然と水田が広がっている。だが当時は深さ80センチはある深田だった。
同城があった山形市本沢地区の本沢郷土研究会顧問、伊藤繁雄さん(82)は「敵の侵入を防ぐため周囲を深田で囲み、城への道も馬1頭が通れる細さにした。近づけば狙い撃ちされ、攻撃は容易でなかったろう」と話す。
戦いが膠着(こうちゃく)状態だった同月29日、関ケ原の戦いで石田三成敗戦の報が伝わると、上杉軍は撤退を始めた。最上勢が激しく攻撃したが、上杉方も山中から鉄砲で抗戦し必死に退却。しんがり軍を務めたのは前田慶次、水原親憲とも兼続とも伝わる。
戦死者数には諸説あるが、「奥羽永慶軍記」によると最上軍の死者は623人、上杉軍では1590人。深追いした最上義光はかぶとに被弾し「直江は古今無双の兵」と感嘆したと記されている。
同地区の住民は両軍の戦死者を弔い、上杉氏家臣の上泉(かみいずみ)泰綱の塚も建てた。同地区振興協議会の片桐良一会長(71)は「敵も味方も生きて帰りたかっただろうという思いは同じだ」と語る。
今も住民は年1回の塚への供養を欠かさない。
2009年06月16日
[天地人ゆかりの旅]米沢・山形(2) 憶測呼ぶ兼続の漢詩〔2009年06月17日〕
[天地人ゆかりの旅]米沢・山形(2) 憶測呼ぶ兼続の漢詩

亀岡文殊堂に残る直江兼続らの詩歌。左から4首目の漢詩「逢恋」の下に「兼続」の文字が見える=山形県高畠町
直江兼続は文人としても評価が高い。特に漢籍に親しんだとされ、兼続の蔵書とされる「宋版史記」などは国宝に指定されている。
兼続は1602(慶長7)年2月、日本三文殊の一つ亀岡文殊堂(山形県高畠町)で、弟の大国実頼ら20人余りと詩歌会を開催。文殊堂には100首が奉納された。
詩歌会が開かれたのは、関ケ原の戦い後に上杉家が米沢に移封された3カ月後。まだ移動の混乱が収まっていなかった時期だった。
亀岡文殊堂を守る大聖寺住職の青山永三さん(80)は「文殊様は学業だけでなく生活の知恵を授けるとされる。米沢に移ったばかりで苦しい時期、詩歌会で家臣の結束を固めるとともに、幸せになる知恵を頂きたいと訪れたのではないか」と推し量る。
文殊堂で兼続が詠んだとされるのは7首。そのうち「逢恋(ほうれん)」と題する漢詩には、思い掛けなく巡り会って人生を慰め合い、話をしていたが、別れの時間が来たという内容のものがある。
兼続は妻のお船と仲が良く、側室などは持たなかったとされる。離れて暮らすことも多かったお船を思う漢詩とも読める。しかし、米沢御堀端史蹟保存会の野村研三さん(63)は「お船とは、家の格が違う結婚で大変なこともあったのではないだろうか。別の女性への思いを込めたものとも考えられる」と自説を話す。
一方、同町観光協会の戸田一郎事務局長(61)は「恋愛に関する題で詩歌を作ることになり、兼続が(恋愛について)想像したものでは」と、これまで通りの兼続の純粋さを主張する。
さまざまな憶測を呼ぶ漢詩だが、400年以上たった今、兼続の真意は兼続のみぞ知るといったところだろうか。
2009年06月17日
[天地人ゆかりの旅]米沢・山形(3) 城下拡張で住居確保〔2009年06月18日〕
[天地人ゆかりの旅]米沢・山形(3) 城下拡張で住居確保

米沢城跡には上杉謙信を祭る上杉神社が建立され、今も多くの市民や観光客が参拝する=米沢市丸の内1
米沢城は、上杉氏が1601(慶長6)年に会津から移封されて以来、明治時代の廃藩置県までの約270年間、上杉氏の居城となった。米沢城の本丸があった場所には上杉謙信を祭る「上杉神社」などがある。
江戸時代の文書「邑鑑(むらかがみ)」によると、上杉移封当時の米沢の人口は約6千人。ここに上杉景勝以下家臣だけで6千人、その家族や職人らを含めると3万人前後が移り住んだとされる。
住居は不足した。米沢藩の歴史などを記した「管見(かんけん)談」は「住居は掘立柱に藁葺(わらぶき)にて…藁莚(わらむしろ)を敷て居住」と紹介。急ごしらえの掘っ立て小屋のような住居だったようだ。
会津から移る際、上杉の元を去った者もいたが、越後以来のほとんどの家臣が米沢に入ったとされる。藩の石高減に伴って家臣の領地も3分の1に減らされる厳しさの中、なぜ多くの家臣が残ったのだろうか。
米沢城跡の上杉神社境内には「心に欲なきときは義理を行う(無欲であれば良識な判断ができる)」などと刻まれた上杉謙信公家訓十六ケ条の碑がある。兼続を顕彰する市民の会「米沢直江会」の小山田信一会長(80)は「十六ケ条などに見られる上杉家の義の心に従ったのだろう」と思いを巡らす。
一方、米沢市上杉博物館の阿部哲人学芸員(40)は「戦が起きる可能性もあり、安易に人(家臣)を減らさない方がいいと判断したのではないか」と冷静に分析する。
当初、米沢城には二の丸しかなかった。家臣や町人の住居を確保するため、新たに三の丸を建設して城下町を広げる工事が始まる。この城下拡張を可能にしたのが、最上川(松川)沿いの堤防「直江石堤」の存在だった。
2009年06月18日
[天地人ゆかりの旅]米沢・山形(4) 「暴れ川」を治め活用〔2009年06月19日〕
[天地人ゆかりの旅]米沢・山形(4) 「暴れ川」を治め活用

公園の一部として整備されている直江石堤。写真奥には最上川が流れる=米沢市赤崩の直江石堤公園
城下の東を流れる最上川(松川)は、大雨で度々はんらんした。水害の危険を除いて城下を拡張するため、直江兼続は自ら山に登って城下を洪水から守るために堤防の場所を選定。「直江石堤」と称される石積みの堤防を建設した。
直江石堤は総延長3キロほど。何度か決壊しながらも修復され、現存する約1キロは公園の一部として整備されている。
兼続はこの「暴れ川」の水を大いに利用した。もともと米沢城下を流れていた小川を掘り下げ、最上川の水を堰(せき)で合流させる工事を指揮。川は「堀立川」と呼ばれ、有事には外堀の役目も果たした。
さらに、最上川から引いた水で城下を流れる生活用水路「御入水(おいりみず)」を整備。農業用水路なども造られ、米沢の農地は広がっていく。検地が厳しくなった影響もあるが、30万石とされた米沢は1638(寛永15)年の再検地では52万石あったとされる。
米沢移封から7年後、兼続は治水事業と並行して08(慶長13)年から城下町の本格的な拡張工事を開始。新たに築いた城の三の丸内には、家臣の屋敷や役所、外側には町人町を設けた。
江戸後期の米沢藩士の日記「吉田綱富見聞日記」には、移封直後に大規模な町の整備が行われなかったことについて「いずれ越後に帰ろうとしていたから」という内容の記述がある。米沢市上杉博物館の阿部哲人学芸員(40)は「実際に戻ろうとしていたことを裏付ける記録はない。ただ、当時の米沢ではそう言い伝えられていたのではないか」と話す。
現在、最上川の流れは穏やかになり、暴れ川の面影はない。ゴツゴツした石が並ぶ直江石堤近くを市民がゆったりと散策する姿が見られるだけだ。
2009年06月19日
[天地人ゆかりの旅]米沢・山形(5) ひそかに鉄砲を製造〔2009年06月22日〕
[天地人ゆかりの旅]米沢・山形(5) ひそかに鉄砲を製造

白布温泉で鉄砲が製造されていたことを伝える「直江城州公鉄砲鍛造遺跡」の碑=米沢市関
直江兼続は移封後の武力強化のため、近江や堺から鉄砲の技術者を呼び、米沢城から約20キロ離れた吾妻山山中の白布温泉一帯でひそかに鉄砲を製造させた。白布温泉の住民らも鉄砲製造所や職人の宿を提供し、同温泉への人の出入りの管理などを担ったという。
白布温泉の一角には今、「直江城州公鉄砲鍛造遺跡」の碑が建つ。関ケ原の戦いが終わっても徳川と豊臣の緊張関係は続き、軍事的に気を抜ける状態ではなかった。
1604(慶長9)年には、鉄砲に関する心得「鉄砲稽古(けいこ)定」を発布。火薬の扱いや学ぶ姿勢を示し、鉄砲の名手育成を図った。
米沢で造られた鉄砲「米沢筒」は、銃身が短く音が大きかったため「雷筒」と呼ばれ、その音は戦場で敵を威嚇したという。
白布温泉での鉄砲造りは、そのころから10年ほど続いたという。碑からほど近い場所にかつて鉄砲製造所があった。現在は更地となり、炉の跡などその痕跡を見ることはできない。
鉄砲製造に協力した白布温泉「東屋」の38代目館主、宍戸康裕さん(66)は「徳川方に鉄砲の製造が知られることを警戒し、跡を残さないようすべてきれいに処分したと聞く」と話す。
鉄砲は1000丁を目標に製造されたとされる。大量の鉄砲の材料がどこから調達されたか、文献は残っていない。それほど慎重に製造、管理されたのだともいえる。
ただ、宍戸さんは家に残る言い伝えとして「(越後の村上地域を支配した)色部氏や鮎川氏が旧領内から材料を運んだという」と揚北(あがきた)衆の役割を示唆する。
米沢で造られた鉄砲は、大坂冬の陣で活躍したとされる。
2009年06月22日
[天地人ゆかりの旅]米沢・山形(6) 殖産興業で基盤固め〔2009年06月23日〕
[天地人ゆかりの旅]米沢・山形(6) 殖産興業で基盤固め

万年堂の形態で建立された直江兼続の墓(左)とお船の墓(右)。有事には屋根を外して積み、防塁とする意図だったとされる=米沢市林泉寺1の春日山林泉寺
直江兼続は防衛を見据えた城下の整備とともに、食糧の増産と換金性の高い作物の栽培など、殖産興業を進めた。町並みや産業など、兼続がつくった基礎を後の米沢藩9代藩主の上杉鷹山(治憲)が発展させ、今も米沢に根付いている。
米沢城は平城で、山城に比べると地形に頼った城の守りができない。兼続は城下の防衛策として、米沢の各寺に「万年堂」と呼ばれる独特の形の墓石を奨励。戦が起きれば積み重ね、防塁とするためのものだったとされる。
米沢で戦乱は起きず、実際に使われることはなかったが、万年堂は米沢市の春日山林泉寺に立つ兼続とお船の墓をはじめ、今も多くの寺に残る。
さらに下級武士たちは郊外に移住し、米沢に続く街道の警備と最上川(松川)のはんらんに対応させた。彼らは「原方(はらかた)衆」と呼ばれ、農業も行う半士半農の生活を送ったという。
原方衆の屋敷の垣根には、食用になるウコギを植えさせた。ウコギは鷹山も植栽を奨励し、城下にも広がった。米沢には庭にウコギが茂る家が残り、ウコギの天ぷらや茶などは郷土食となっている。
同市松が岬の植木正晴さん(65)は「昔からある家にはウコギの垣根がある。うちも庭のウコギの新芽を摘んで食べた」と話す。
さらに漆、桑、青苧(あおそ)、紅花などの増産も進めた。この青苧と紅花を使い、鷹山の時代に名産品に育てたのが米沢織だ。
米沢城跡の堀を隔てて東側には、上杉景勝や鷹山、兼続らを祭った松岬神社が鎮座している。同神社は、殖産興業に励んだ兼続や鷹山にちなみ、商売繁盛や家庭円満、学業成就の神として上杉神社と共に米沢市民に親しまれている。
2009年06月23日

















