日中戦争の勃発から太平洋戦争が終結するまでの期間、傷病兵を手当てするために派遣された従軍看護婦らは3万人を超えたという。日本赤十字社新潟県支部もこの間、900人余を送り出し、全国で4番目の規模だった

▼その活動と献身ぶりは「百年の歩み」(同支部発行)に詳しいが、「戦時の救護」の章はページをめくるのがつらい。異国の地で殉職した、何人もの若い県人女性の顔写真と足跡が載っているからだ。死因は結核、マラリアなどとある

▼生き延びた元看護婦に話を聞いたことがある。南方のニューブリテン島の兵站(へいたん)病院で勤務した。伝染病棟では1人が約20人の面倒を見る修羅場。薬も満足にない。栄養失調やマラリアで毎日死者が出て、泣きながら仕事をこなす-。いわゆる野戦病院だったのだろう

▼新型ウイルス禍で医療が逼迫(ひっぱく)する中、体育館などを活用した臨時医療施設が設置され始めた。こうした施設の呼び名に、時に野戦病院という言葉が使われる。「野戦病院をつくる」と発言した首長もいる。患者の受け皿として期待されている

▼本物の野戦病院で修羅場をくぐった人や遺族の中には、こうした呼び名に疑問を抱く方もおられよう。多くの命が失われた場であることを考えれば、分かりやすいと安易に使うべきではない呼称だろう

▼帰国を果たしたものの、故郷の病院や自宅で力尽きた従軍看護婦もいる。みとった家族や友人の悲しみはいかばかりだったか。やはり、心を痛める人がいる言葉だと思うのだ。