米海軍提督ペリーが浦賀(神奈川県)に到着した「黒船来航」の5年前、1848(嘉永元)年に創業した「コトヨ醤油(しょうゆ)醸造元」。新潟県阿賀野市笹岡で170年以上、手作業でしょうゆを製造している。木おけにすみつく天然の酵母を利用して長期熟成する伝統製法を守る一方、白ワインを加えただししょうゆなど、時代の変化に合わせた革新的な商品開発にも挑み、業界に新風を吹き込む。
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五頭山を望む笹岡の地で栄えた豪商・小林家。江戸時代後期の嘉永元年、豊次郎氏が創業したのがコトヨ醤油の起源だ。詳細な記録は残されていないが、酒店「広沢屋」の開業とともに、隣の土地でしょうゆ醸造に乗り出したことが始まりとされる。

6尺おけの前で撮影した従業員らの集合写真=1930年ごろ
1930(昭和5)年ごろに撮影されたコトヨ醤油に残る最古の写真には、従業員の作業着に「笹岡廣澤屋醤油醸造部」の文字が読み取れる。創業者、豊次郎から数え6代目に当たる小林丈将(たけのぶ)部長(44)は「主に酒の販売を営む傍ら、しょうゆ醸造は一部門として行っていたのだろう」と推察する。
「コトヨ」の名称は、小林の「小」と豊次郎の「豊」が由来だ。当主は代々、豊次郎を襲名して蔵元を守ってきた。
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しょうゆの深い香りが漂う工場内には、高さ約2メートルの杉製の「6尺おけ」が整然と並ぶ。1トンずつ蒸した大豆と小麦に麹(こうじ)菌を加えて3日間寝かせ、塩水と混ぜて、おけ1個分のもろみを作る。麹室の温度調節のため、最も冷え込む1、2月にこの作業を行う。毎年十数個分を仕込み、1年半から2年かけて長期熟成させる。
現在も主力設備として使い続ける6尺おけを整備したのは明治時代、3代目豊次郎氏の頃だった。小林家は事業領域を拡大。酒店としょうゆ醸造のほか、郵便や燃料といった事業も手がけるようになっていた。
おけの側板には「明治44年」(1911年)などと製造年や職人の名前、製作費といった情報が書き残されている。石川県など各地の職人が笹岡に住み込み、製造したことが分かる。
費用は現在の価値に換算すると、1個当たり約200万円。工場では現在、約30個のおけを使用しており、そのうち半分以上は明治時代に導入された物だという。3代目豊次郎氏は大規模な設備投資を断行し、その後100年以上続く生産体制の礎を築いた。
創業 | 1848年 |
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資本金 | 300万円 |
事業内容 | しょうゆ製造 |
従業員数 | 3人 |
おけの配備後も専門の技術者が定期的に蔵を訪れ、維持管理を欠かすことはなかった。小林部長は「私が働き始めてから、壊れたおけは二つだけ。相当な技術力だったのだろう」と推し量る。
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おけになみなみと注がれ、熟成の進んだもろみの表面からは、気泡がぷつぷつと湧き上がる。静まり返った工場内では、耳を澄ませると小さな破裂音が聞こえる。酵母によって発酵する過程で、炭酸ガスが発生するためだ。
大手メーカーなどでは、もろみに酵母を添加して発酵を促す場合もあるが、コトヨ醤油は、木おけに付いた天然の「お家酵母」を利用している。おけの内側や、工場内のはりなどに白く斑点状に付着している酵母の働きで、しょうゆに深くまろやかな味がもたらされる。
しょうゆ製造を始めた江戸時代から、おけを整備した明治時代を経て、長い年月をかけて育まれた酵母は、コトヨ醤油の最大の強みとなった。小林部長は「今から作ろうと思っても絶対に作れない。おけとともに大切な『財産』として受け継がれている」と話す。
設備投資に区切りを付けた3代目豊次郎は、世代交代を考え始める。時代は終戦を迎え、昭和中期に差しかかっていた。