1953年の創業時から使われている吉田整理の第1工場。左奥は第2工場=見附市本町4

【2021/11/29】

 編み上がったニット生地や製品は、洗浄したり湯洗いしながら縮ませたりすることで肌触りが良くなる。「整理加工」と呼ばれるニット製造の工程を担い、全国的に知られるのが吉田整理(見附市)だ。創業から約70年、時に繊維産業の不況に直撃されつつも、さまざまな種類の素材に合わせた加工で着心地を追求し、新たな技術にも取り組んできた。産地を下支えする黒子的な立場で、ニット製造で欠かせない存在感を放つ。(全4回)

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 200社を超える織物業者が集積し、活気にあふれていた見附市で1953年1月、市内の他の場所で整理加工業を営む吉田善蔵(ぜんぞう)氏が吉田整理を創業した。

 糸にでんぷん質の糊(のり)を付着させて滑りやすくして作る織物の生地は、織物会社が生地問屋に出荷する前に洗浄が不可欠だった。防腐剤や抗菌剤がなかった当時、洗浄していない生地で衣料メーカーが服などを仕立てると、残っていた糊が、かびたり、異臭を放ったりする原因になるためだ。

 善蔵氏は、家内工業的な事業を拡大し、市中心部に新工場を建てて操業を始めた。産地では樹脂をコーティングすることで生地にしわが付きにくくする樹脂加工が流行していた。市内で当時、整理加工に携わっていたのは5社。善蔵氏の孫で現社長の善一(ぜんいち)氏(63)は「樹脂加工を始める目的で大きな工場が必要と考えたのではないか」と創業の動機を推測する。

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 織物産業が元気な時代でもあり、吉田整理は樹脂加工に加え、生地を針金で毛羽立たせて風合いを良くする起毛加工など幅広い受注で業績を伸ばした。57年8月までに本社工場の隣に第2工場、裏手には第3工場と起毛機を並べる建物を増設。これを機に「吉田整理工場」として有限会社化した。

会社データ
創業 1953年
会社設立 1980年
資本金 3000万円
売上高 約8000万円(2021年10月期)
事業内容 ニット生地、半製品などの整理加工
従業員数 12人

 

 見附織物工業協同組合顧問の小倉克榮(かつえい)氏(83)は「最大手以外にも選択肢があった方がいいと、吉田整理を育てる意味で仕事を回す会社もあった」と振り返る。60年代には、吉田整理の社員は80人にまで増えていた。

 善蔵氏の息子の善太郎氏もともに会社を切り盛りし、63年ごろには代替わりしていた。善一氏は当時の工場の様子をおぼろげながら覚えている。

 ドラム式洗浄機などなかった当時、「ローラーの間に通した生地を回転と反転を繰り返しながら長さ5メートル、高さ1メートルほどの水槽でじゃぶじゃぶと洗っていた」という。動力源は石炭ボイラー。社員がシャベルで石炭をくべる重労働だった。

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 順調な業績に62年ごろ暗雲が垂れ込める。岩戸景気の反動不況で、発注元の織物会社が勢いを失っていった。織物組合の統計データによれば、63年10月は153社だった織物会社が、半年後には転廃業によって127社に減少している。

 60年代後半になると、国は協業化や合併による企業集約を通じて織物業のてこ入れを図る構造改善事業を開始する。見附産地も「国の方針には逆らえない」という空気に包まれた。

 染色整理業も対象に加えられ、吉田整理も70年に長岡市栃尾地域の会社に吸収合併される。吉田整理の看板は姿を消した。社長の善太郎氏は、合併先の取締役となった。

 ただ、70年代もドルショック、2度のオイルショックと織物業に苦境が続く。吉田整理の合併先も燃料費高騰が響き、80年夏に100人規模の解雇を行う。その中には、かつての吉田整理社員も含まれていた。吸収合併から10年が経過していた。

 「見附にもう一度、吉田の名前で看板を掲げたいという思いがあったはずだ」。善一氏は、この頃の善太郎氏の心中を思いやる。

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