歩いても歩いても、村が見えてこない-。2004年10月24日。新潟県で発生した中越地震の翌朝、道路が寸断され被災状況が分からなかった山古志村(当時)を目指して若手記者2人が小千谷市浦柄から約3時間、約10キロの山道を登った。泥だらけになりながらたどり着いた先で見た惨状に言葉を失った。あれから19年。40代となった記者2人が再び山古志へ向かい、過去の記憶と現在の姿を重ねながら再び「あの道」をたどった。(デジタル・グラフィックスセンター 小熊隆也、報道部 荒木崇)=2回続きの1=
山古志へと向かう空は19年前のあの日と同じ、青々とした空が広がっていた。
当時、入社4年目。新潟日報本社でそれぞれ拉致問題、新潟市政を担当していた同期記者2人が午前7時ごろ、小千谷市浦柄から国道291号を上った。


<2023年>山古志に続く現在の小千谷市浦柄。19年ぶりに国道291号を歩く
集落を貫く朝日川が、崩落した土砂などでせき止められたことで道路に水があふれ、木が転がっていた。水害のような状況の集落をひたすら歩いた記憶がある。山古志地域に接する小千谷市東山地域は闘牛や錦鯉が盛んだ。路上には散乱したコイ。「どこまで被害が広がっているのか」。不安に駆られながら必死で山古志を目指した。

<2023年>錦鯉ののぼり旗がはためく。震災直後は錦鯉の美しい模様が泥にまみれ、口を開けて死んでいた=小千谷市
「行けるところまで行ってくれ。住民の声、息遣いを聞いてこい」。出発前に言われた上司の言葉が耳に残っている。「絶対に無理はするな」とくぎも刺された。だが、地元紙として山古志にいち早く入り、村の様子や住民の声を紙面で伝えたいという思いが強かった。携帯電話が通じないため日没までに山を降り、記事を翌日の朝刊に載せて状況を伝える必要があった。
20代半ばで体力はあった。山古志へとつながる道は数メートルにわたって崖が崩れ、道路をふさいでいた。誰かが歩いたであろう足跡を頼りに、斜面をよじ登って恐る恐る前へ前へと進んだ。


何度も余震があった。再び崩れる危険もあった。もちろん恐怖はあったが、それを上回るくらい必死だった。今だと足がすくむくらいの斜面だ。若かったから進めたのかもしれない。
当時、大きなカーブを越えて昼前に山古志地域に入った。今もそのカーブは残っていた。歩いているとすぐに、腕章を見て若者2人が寄ってきて話しかけてくれたのを思い出した。地元記者を見つけ、ほっとした表情を見せたのが印象的だった。道路が寸断され、「陸の孤島」となる中、外の世界とようやくつながれると希望を感じたのかもしれない。

<2023年>若者2人と出会った大きなカーブがある道路。「誰も助けに来てくれない」ー。悲痛な声は今も耳に残る
「誰も助けに来てくれなかった。村は一体どうなっているのか」「ヘリが何機も飛んでいるのに食料や物資を降ろしてくれない」
強い口調だった。「日報さん、山古志の状況を伝えてほしい」と言い、持っていた菓子を渡された。チョコレートだったか、あめだったか。はっきり覚えていないが、大事にポケットに入れて先を急いだ。歩き始めて2時間以上。身体は正直疲れていたが、若者の激励が大きな力になった。
名前を聞いておけばよかった。あの若者にもう一度会いたいー。その思いが、山古志再訪で強くなった。

<2023年>美しい棚田を取り戻した山古志地域。震災直後の記憶と今を重ね合わせる
▽当時の新潟日報の記事(記事をクリックすると拡大します)

2004年10月26日付 新潟日報社会面
撮影=長岡支社 芳本卓也
グラフィックス作成=デジタル・グラフィックスセンター 継田麗子