新潟市立寄居中1年の横田めぐみさん=失踪当時(13)=が、下校途中に北朝鮮の工作員に拉致されて11月15日で42年となる。事件は学校から自宅までの約600メートルの間に発生。解決に結びつく有力な手がかりがないまま年月が過ぎ、北朝鮮にいるとの情報がもたらされたのは約20年後の1997年のことだった。だが、それからさらに22年たった今もめぐみさんの帰国は果たせていない。再会を願う関係者の心には、今も「あの日」が濃い影を落とす。めぐみさんの同級生だった池田正樹さん(55)と、めぐみさんの母校新潟小に通う長男大和君(7)とともに現場周辺を歩き、救出への決意を新たにした。また、めぐみさんの双子の弟拓也さん(51)、哲也さん(51)に「あの日」の記憶などを聞いた。(報道部・長野清隆、東京支社・中島陽平)
1977年11月15日午後6時半ごろ、バドミントン部の練習を終えためぐみさんは友人2人と下校した。あの事件が起きたのは「その後すぐ」のことだった。
ことし11月初旬のほぼ同時刻。池田さん父子と一緒に、めぐみさんの通学路をたどった。
寄居中の校門を出ると寄居坂が緩やかに海岸方向に延びる=図P1=。バス通りで車の交通量はあるが、歩行者はほとんどいない。街灯の光はあるが、大和君は「暗いね」と口にした。
42年前を知る関係者の一人は「今も暗いが、昔はもっと暗かった」という。
めぐみさんとバドミントン部で一緒だった正樹さん。「あの日、お父さんも隣のコートで練習していた。横田さんが拉致される数十分前までね」。厳しい表情で大和君に説明した。
校門から約220メートル歩くと信号がある交差点に着いた。めぐみさんはここで2人目の友人と別れた=図P2=。めぐみさんが最後に確認された地点でもある。
ここから先、一人で自宅を目指しためぐみさんはどうなったのか-。
佐渡市の拉致被害者曽我ひとみさん(60)が、北朝鮮でめぐみさん本人から聞いたという証言がある。「曲がり角で男に捕まり、空き地に連れ込まれて拉致された」というものだ。
42年前のあの夜、めぐみさんの臭いをたどって警察犬が捜索したが、自宅に近い道路周辺で途絶えた=図P3=。この付近で拉致されたとみられている。「この辺りで拉致されたんだよ」と正樹さんが言うと、大和君は「おうちまでどれぐらい」と聞き返した。
「200メートルほどだ。行こう」。正樹さんは丁字路を左折し、薄暗い道を歩き、二つ目の丁字路で止まって右を見た=図P4=。「あそこに横田さんのご自宅があった。事件後ご両親は東京に行ったが、どんなに後ろ髪が引かれる思いで去ったのだろう」。大和君に想像を促すようにつぶやいた。
大和君は「めぐみさん、早く帰ってきて」と語り、正樹さんの手をぎゅっと握った。現在、救出のための署名活動を手伝っている。
事件当日、現場周辺で「予兆」のような出来事がいくつもあった。めぐみさんの母早紀江さん(83)の親友で、当時新潟市に住んでいた真保節子さん(87)=千葉市=は、ある光景が脳裏から離れない。
知的障害児の施設「明生園」でボランティアをしていた節子さんは昼前に自宅に戻ろうと、護国神社方向に歩いていた。
その時、視線を感じた。白い車が止まっていたのが見えた=図A=。誰も乗っていないようだった。「通り過ぎようとしたら、運転席の窓から男の人の手がにゅっと出てきて『おいで、おいで』の手招きをした」
怖くて逃げ帰ったが、胸騒ぎが続いた。長女恵美子さん(54)の親友であるめぐみさんが帰宅していないと分かったのは、その夜のこと。早紀江さんからの電話で知ったのだ。
頭に浮かんだのは白い車。「何で早紀江さんに知らせてやれなかったのか」。自らを責めた節子さんはその後、一緒に防風林を探すなどし、現在に至るまで早紀江さんに寄り添い続ける。「あの頃は思い出すのもつらい。毎日、早紀江さんとともに泣いていた」
寄居中付近でも白い車が目撃されていた=図B=。帰宅中の女子高生がごつい顔をした2人組の男に追われる=図C=など不審者情報はあったが、解決の手がかりにならなかった。
めぐみさんの親友、恵美子さんも「あの日」を忘れられない。同じバドミントン部だったが、その日に限って部活を休んだ。帰宅途中で、拉致現場の周辺で友人と数十分間、立ち話をしたことを覚えている。
「まさかあそこで事件が起きるなんて。自宅がもうすぐそこなのに...」。今は千葉市で暮らしている恵美子さん。「新潟は生まれ育った懐かしいまち。だけど、悲しいまちでもある」
バドミントンは中学時代にやめたが、社会人になって再び始めた。「めぐみちゃんとずっと一緒にやろうねって約束していたので」
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事件発生直後、検問などに当たった元新潟中央署員の一人は今も忸怩たる思いを抱える。当時、現場の捜査員の間では「北朝鮮との関連が分からなかった」。仮にこの道に「北朝鮮」関係者がいた可能性が警察幹部の中で想像され、捜査員レベルにもその想像が伝えられていたとしたら-。「初動捜査も違っていただろう」と唇をかむ。
拉致事件の悲惨さを知ってもらおうと、救う会新潟会長の高橋正さん(83)は、県外から訪れた人とともに現場を歩くことがある。「まちの中でどうしてこんなことが起こったのか。憤りを感じる」。北朝鮮が拉致を認めた2002年以前から署名活動を続けている。現場を歩くたびに「取り返さなければ」との思いを強くしている。
拉致されためぐみさんや家族はむろん、事件に接した多くの人たちにとっても、この道は、人生を翻弄された「原点」の地である。
「海鳴りがすごくて、寒く、空は真っ暗だった」。横田拓也さんにとっての42年前の新潟市の記憶だ。「姉がいなくなったさみしさもあってか、ずっしりとした独特の重い雰囲気を感じていた。その印象は昔も今も変わらない」
めぐみさんが消息を絶った42年前のあの夜。母早紀江さんに手を引かれ、双子の弟哲也さんとともに探し歩いた。早紀江さんは「めぐみちゃーん」と必死に叫んでいた。「何が起きていたのか当時はよく分からなかった。『夜に何をしに行くのだろう』といったただただ怖い気持ちだった」と拓也さんは振り返る。
現在、拉致問題は停滞感が否めない。拓也さんは今、政府が発行している拉致問題に関する国民向けパンフレットに記載されている年表に注目する。この1行目に「1977年 拉致事案の発生」と記されている。「事案」にはめぐみさん拉致も含まれる。
「年表には(北朝鮮が拉致を認めた2002年以降の)日朝協議などの事項は手厚く記されている。だが、なぜ『1行目』の77年の時点で国が動かなかったのか」と拓也さんは厳しい表情で語る。「『人権を守る』を最優先していれば、こんなにも長く放置されることはなかった」
家族会と支援団体「救う会」はことし、北朝鮮トップへ「全拉致被害者の即時一括帰国の決断を」とするメッセージを発信した。拓也さんは強調する。「姉だけが帰ってくればいいという話ではない。求めているのは全被害者の帰国だ」
5年ほど前のある休日。横田哲也さんは久しぶりに新潟市を訪ね、かつて自宅があった付近を歩いた。その時、自分の後ろをついてきたスズメがいた。その姿は「私はここにいるよ」と訴えるめぐみさんのように感じた。「早く助けたい」-。決意を新たにしたという。
平穏な暮らしが一変したあの夜。いくつもの「もしも」が浮かぶ。「もし街灯がもっと設置されていたら、もし夜回りが日常的に行われていたりしたら...」
ただ、哲也さんは、こうした「もしも」以上に、問題はもっと根深いところにあると考える。「警察はかなり早い段階で北朝鮮の関与を疑っていたという話がある。工作員の(日本国内での)協力者がいた可能性は何十年もたってからいわれるようになったが、当時すぐに対応しなかったことは国の怠慢でしかない」
全国各地で、めぐみさんの弟という立場だけでなく全被害者家族の思いを繰り返し訴えてきた。「『同じ話ばかりで大丈夫かな』と思うことはあるが、初めて聞く人が少なからずいるとも思う。今も苦しんでいる拉致被害者がいる現実を伝え続けるしかない」。その積み重ねが拉致問題を動かす力になると信じている。
父滋さん(87)は入院中で、母早紀江さんも疲労から今回の県民集会への出席を見送った。横田家からは哲也さんが登壇する。「新潟では姉のために頑張って声を出してくれる人たちがいる。心強い」と感謝。「救出という結果を出すために家族は先頭に立つ。その背中を押してほしい」と願った。
2019年11月14日 新潟日報