1977年11月15日に新潟市で拉致された横田めぐみさんの父滋さんが、今年6月に87歳で死去した。娘を取り戻す闘いで、母早紀江さん(84)にとって滋さんは「戦友」でもあった。「残された時間は多くはないが、最後まで諦めない」。早紀江さんの数々の「言葉」を通じ、打ちのめされても何度も立ち上がり続けてきた横田家の歩みを見つめ直し、被害者救出につなげたい。
1977~2002年
「お姉ちゃんが、まだ戻ってないのよ。すぐ帰って来て」
【1977年11月15日=めぐみさんが行方不明に。滋さんとの電話で】
午後6時半ごろ、新潟市の寄居中1年のめぐみさんが、バドミントン部の練習を終え、下校中に失踪する。誘拐されたのか、事故に遭ったのか、安否も何も分からない。家族にとって先の見えない日々は、北朝鮮による拉致の可能性を知る97年まで約20年続いた。
「ひょっこりと、めぐみが帰ってくるんじゃないか...。そう思うと、この家から、新潟から去らなければならないのは、本当につらい」
【83年5月末=滋さんの東京への転勤が決まり、新潟市を離れる前の新潟日報社の取材で】
めぐみさん失踪後、横田家の門灯は一晩中ともされた。娘を待ち続けたが、消息は全く分からなかった。自殺願望が浮かぶ日もあったが、「支えてくれたのは、大勢の人たちの温かい励ましと力添えだったと思います」と感謝した。
「娘のほかにもたくさんの方が拉致されている疑いがあるということで、国家レベルの問題として緊張しています」
【97年2月7日=北朝鮮によるめぐみさん拉致疑惑を受けた会見】
謎の失踪から約20年。「北朝鮮にいる」との思いがけない情報が舞い込み、希望を持った。ただ、娘に危険が及ぶことを懸念し、実名を公表するかどうかで横田家の意見は割れた。だが、滋さんは実名でなければ信ぴょう性が疑われ、世論に訴える力が弱くなると考え、実名公表を決断した。
97年3月、同じ苦しみを抱える全国の家族たちが集まり、拉致被害者家族連絡会を結成。滋さんが初代代表に就いた。
「この辺りのデパートに娘とよく買い物に来ました。思い出すと懐かしさとつらさが交じって複雑な気持ちです」
【97年4月12日=新潟市の古町十字路での署名活動】
「父 横田滋」「母 横田早紀江」と書かれたたすきをつけ、夫妻は初めて新潟の街頭に立ち、救出を訴えた。最愛の娘を奪われた地だけにつらい記憶がよみがえった。だが、足を止め、署名に協力する多くの市民から勇気をもらった。
当時、政治や世論の大半は拉致を「疑惑」とした。「でっち上げだ」と批判する人もいた。
それでも、「普通の家族」が国家レベルの問題を動かそうとする必死な姿は、人々の心を打ち、支援の輪は新潟から全国へと広がっていった。
2002~04年
「いつ死んだかどうかも分からないような、そんなことを信じることはできません」
「このように犠牲になって、苦しみ、また亡くなったかもしれない若者たちの心のうちを思ってください」
「力を合わせて闘ってきたことが、大きな政治の中の大変な問題であることを暴露しました。本当に日本にとって大事なことでした。北朝鮮にとっても大事なことです。そのようなことのために、めぐみは犠牲になり、また使命を果たしたのではないかと私は信じています」
【2002年9月17日=初の日朝首脳会談。『めぐみさん死亡』との北朝鮮発表を伝えられた後の会見】
北朝鮮の金正日総書記が拉致を認め、謝罪。拉致が「疑惑」から「事件」に変わった。歴史が動いた瞬間だった。柏崎市の蓮池薫さんら5人の生存が明らかになった一方、横田家ら他の家族は残酷な"宣告"を受けた。それでも、滋さんは声を詰まらせつつ「遠慮なさらずに喜んでください」と生存が分かった被害者の家族を気遣った。早紀江さんはマイクを握り「生きていることを信じて闘ってまいります」と気丈に誓った。
「まだ闇のままです。でも、その向こうに朝日があるような気がします」
【02年10月15日=蓮池薫さんら拉致被害者5人の帰国を受けて】
蓮池薫さん、祐木子さん夫妻や曽我ひとみさんら5人が帰国。横田さん夫妻は5人を羽田空港で出迎えた。「5人がタラップを降りた後、どうかめぐみも一緒に...」と万一の奇跡を願ったが、その姿はなかった。
平壌の空港に、ある少女が5人を見送りに来ていた。後にDNA鑑定でめぐみさんの娘と断定されるキム・ウンギョンさんだった。
「こんなにきれいな海なのに、この海は嫌い。ここから連れていかれたと思うと...」
【02年11月11日=めぐみさん拉致から25年を前に、新潟市を訪問】
1976年夏に広島市から新潟市に引っ越してきた横田家が全員で眺めたのは、青い空が広がっていた日本海。だが、横田家には悲しい記憶の原点だ。「新潟の海は、申し訳ないけど、今も大嫌い。鉛色の鉄板のように、よみがえってくる」。77年11月15日、真っ暗な海辺を母と双子の兄弟は歩き、「めぐみちゃーん」と叫びながら捜し続けた。
「また子どもたちを置き去りにされた。こんなチャンスを逃がして、どうして救うことができるのか」
【2004年5月22日=小泉純一郎首相(当時)再訪朝の結果を受けた会見】
第2回日朝首脳会談で、蓮池夫妻らの子どもたちを北朝鮮から呼び寄せることはできた。ただ、安否不明者らに関する新情報はゼロ。いつも温厚な滋さんも、落胆のあまり「予想された範囲の最悪の結果となった」と厳しい口調で語った。
2004~14年
「当初から『死亡』に色付けされたものの結果だけだろうと思っていた。きっと(めぐみたちは)『北のやり方にだまされないで。違うのよ』と今も助けを待っている」
【04年11月15日=北朝鮮側が『めぐみさんの遺骨』と説明した骨を日本政府代表団が持ち帰った後の会見】
日本で行ったDNA鑑定でこの骨は、別人のものと判明。北朝鮮による拉致被害者調査の信ぴょう性が根底から崩れる形となった。
「ショックと、懐かしさのあまり泣いてしまった。何か諦めているような、何となく緊張した心細そうな目。苦しみ、こらえていたのかと思うと、かわいそうでならない」
【04年11月16日=北朝鮮が出しためぐみさんの写真を公開】
日朝実務者協議で北朝鮮が出した写真は3枚。特に、拉致されて間もない時期に撮影されたとみられる1枚に、横田家全員が号泣した。「本当にあの国にいたんだと実感した」。夫妻は受け取った写真を深夜まで何度もルーペでのぞき込み、娘の「不思議で理不尽な人生」に思いを巡らせた。
「絶対に生きていると信じて頑張っている。私もクリスチャン。ブッシュ大統領が聖書に手を置いて祈っている姿を思い出す」
【06年4月29日(日本時間)=ブッシュ米大統領(当時)との面会後の会見】
米大統領が初めて拉致被害者家族と面会。執務室に招き入れ、早紀江さんを「マム(お母さん)」と呼んで抱き締めるなど終始気遣いを見せた。拓也さんは「当事者と同じ立場に立ってくれた」と喜んだ。
「大事な仕事を与えられたのだと考え、頑張ろうと思う。でも、いつまで親が訴え続けなきゃいけないのか。本来、国がすること」
【06年8月5日=全47都道府県での講演を果たすことになる前の取材に】
1997年以降、夫妻は新潟をはじめ全国各地を行脚し、被害者救出を訴えてきた。重ねた講演は1400回以上。滋さんのスケジュール表には連日、分刻みの日程が書き込まれた。周囲は「娘と再会する前に体を壊しては駄目だ」と休息をするように促したが、滋さんは「それはできない。行くんだ」と闘い続けた。
「洋服は10年前と変わらないが、体は年を取った。北朝鮮はとんでもない国だと世界中が分かったことに大きな意義があった」
【07年3月23日=家族会結成10年を前にした会見】
家族会の結成から10年。早紀江さんは、結成日と同じ緑のジャケットで会見に臨んだ。滋さんはこの日、体調を理由に代表を退く意向を表明。その後の退任会見では「種をまき、水をやったものが、いずれ花が咲くと思う」と語った。
2014~現在
「めぐみの小さいころにそっくり。面影を思い浮かべて、前から一緒にいたようにお話をすることができた。おじいちゃん、おばあちゃんが、孫やひ孫に会うという当たり前のことがようやく実現した」
【14年3月17日=キム・ウンギョンさんとの面会を果たした後、報告の会見】
夢のようなひととき-。夫妻は孫娘とモンゴルで会い、生後10カ月(当時)のひ孫の女児も抱いた。
ウンギョンさんの存在が明らかになったのは02年。すぐにでも会いたかったが、「拉致問題の幕引きにつながりかねない」との懸念から、ずっと我慢に我慢を重ねてきた。11年半の歳月を経て「奇跡的」(早紀江さん)に面会を果たした。
「高齢になり、主人は前のように話すことができなくなった。家族が引き裂かれたままでいる。これ以上、体が弱くなる前に、どうか本気で娘を助けて」
【15年11月15日=「忘れるな拉致 県民集会」】
04年から毎年開催している県民集会。滋さんの出席は、これが最後となった。「娘を早く返してほしい」と言葉を振り絞った滋さんの体を、息子の哲也さんが、手を添えて支えた。「父もしゃべるのがたどたどしくなった。これが現実。時間がないとはこういうことだ」
「40年たっても何も分からないのは不思議でならない。(日本政府を)信じてよかったのかとの思いが家族にもある。私もそんなに長くない。1時間でもいいから会いたい。意識のあるうちに『めぐみちゃん』と言ってあげたい」
【17年11月15日=めぐみさん拉致から40年の会見】
言葉が出づらくなった滋さんは会見終了間際、何かを訴えようとしたのか、小声で「めぐみちゃん...」とつぶやいた。夫妻が公の会見で並んだ最後となった。滋さんは18年4月に入院し、闘病生活に入る。
「(会談での拉致提起に)よくここまで来たなという思い。(次は)安倍晋三首相と金正恩氏が心と心で話し合ってほしい」
【18年6月12日=初の米朝首脳会談を受けた会見】
家族は期待と不安の中で会談を見守った。トランプ米大統領が北朝鮮の金正恩朝鮮労働党委員長に拉致問題を提起。その後、安倍首相(当時)は「日本が北朝鮮と直接向き合い、拉致問題を解決していく」と述べた。日本政府は無条件での日朝首脳会談を開催したい意向を表明したが、今も見通しは立っていない。家族らは「外国の協力は必要だが、拉致を解決するのは日本自身だ」と、政府の主体的な行動を求めている。
「二人三脚で頑張ってきた。何にも思い残すことがないほど全身全霊で活動に打ち込んだ。耳の近くまで顔を寄せて『お父さん、気持ちよく眠ってください。私が(天国に)行くときまで、忘れないで待っていてね』と声をかけると、眠るように亡くなった。安らかで優しい顔だった」
【20年6月9日=滋さん死去を受けた会見】
夫の他界後も「最後まで頑張る」と気丈に語る早紀江さん。だが時々、政治へのやるせない本音をこぼす。「本当にだらしがない。しゃんとした国になってほしい。ほしいのは言葉よりも、真心と行動なのです」
新潟日報 2020年11月12日