春の新聞週間に合わせ、新潟日報社は自身の考えや思いをつづるコラム「わたしの日報抄」を募集しました。21回目となることしは、9歳から94歳まで幅広い世代から431編が寄せられました。学校生活で学んだことや、地域社会での温かな交流、家族に対するかけがえのない思いなど、日々の暮らしで感じたことを等身大の言葉で表現した作品が光りました。優秀賞に選ばれた5編、佳作に選ばれた11編を紹介します。
言葉はすごい。何をしても結局ここに落ち着く。私は本を読むことが好きで、受験勉強の合間に本を読むことも多い。物語を読むことが好きなのだが、作家さんは本当にすごいと思った。こんなに人を夢中にさせる文章を創り上げることができるのは、みんながみんなできるわけではないのだから▼「この歌、好きだな」と感じる歌は、私の場合、歌詞が好きだから、という理由になる。ここでも言葉だ。やはり受験生だからか、はげましてくれる歌が今は好きだ▼言葉は魔法だ。人を幸せにもできるし、人を欺くことさえもできてしまう。花束にもなれるし、ナイフにもなれるのだ、言葉というものは▼だからこそ気を付けなくてはいけない。私が言った言葉で簡単に人を傷つけられるのだから。私は誰かを傷つけるためではなく、誰かを幸せにするために言葉を使いたい。そういうことができる人間になりたい▼先の見えないトンネルもあと少しで終わり、きっと桜の咲く暖かい春が近づいているはずだ▼受験が終わったらいろいろな人に感謝という名の花束を作りたい。言葉はすごい。だからこそ大切にしていきたい。
お正月、テーブルに並んだおせち料理を見て、私はふしぎに思った。「黒豆と海老(えび)には、どんな意味があるのだろう」▼本で調べると、海老は「腰が曲がるまで長生きできるように」、黒豆は「まめに元気に働けるように」という願いがこめられていると書いてあった。私はそれを見てびっくりした。「おせち」という本には黒豆は「まめまめしく暮らせますように」だったからだ▼おせち料理の意味は、家や本によって、少しずつちがうことに気づいた。私は食べながら考えてみた。「まめまめしく」も「まめに働く」も、どちらにも「元気に」という願いが入っている。言葉はちがっても、健康を願う「根っこ」は一緒なのだ▼2026年が始まり、テレビで他の家のおせちの写真が映った。その時驚いた。他になくわが家だけののっぺがあるからだ▼おせちは昔から受けつがれているけれど、中身も意味もそれぞれの家庭で自由に変化してきたのだと分かった。みんなが同じ物を食べる必要はない▼家族のことを思う「自由な願い」がつまっているからこそ、おせちはこんなにカラフルでおいしいのだと思う。私はこの温かい伝統をずっと大切にしていきたい。
小学生の頃からバレーボールに憧れていた。しかし、私が入学した中学校には男子バレーボール部がなかった。それでも諦められなかった▼そんなとき、女子バレー部の顧問の先生が、「女子バレーでよかったら見学に来てもいいよ」と声をかけてくれた。見学するとますますバレーボールをやりたくなった▼わらにもすがる思いで、女子バレーボール部に入部させてほしいと先生に頼み込んだ。すると、先生から、「やるんだったら一生懸命やるんだ」という言葉が返ってきた。涙がでるほどうれしくて、そのときの先生の言葉は今でも心に残っている▼そこから、バレーボール漬けの生活が始まった。しかし、どんなに頑張っても大会には参加できない。そのため、他の地域の男子チームに入れてもらった▼先生との約束を守りたかったし、何よりバレーボールがどんどん好きになった。その結果、バレーボールで進学が決まり、高校でも大好きなバレーを続けられることになった▼中学校生活には、たくさんのキッカケがある。でも、そのキッカケのつかみ方が大事なんだ。それは、初めの一歩を踏み出す勇気をもつこと。先生がくれたキッカケ。今度は私が誰かに与えたい。
2024(令和6)年1月1日に起きた能登半島地しんの時、私の家も大きくゆれた。その時いっしょにいたお母さんと妹とテーブルの下ににげた▼「つなみがくるかもしれない」というお母さんの言葉にこわくなった。みんなで高台にひなんして、いつも見ているおだやかな海が茶色くうずをまいている様子に、妹の手をギュッとにぎりしめた▼昨年の秋、新潟県・出雲崎町総合防災訓練や、防災ワークショップに参加した。じしん体けん車や、こう雨体けん車に乗り、おしりがうかぶくらいのゆれの後、頭がくらくらした。はげしい雨の音で人の声が聞こえなかった▼私がひなんをした時、もっとはげしいゆれや、雨だったら、「にげて」と言う声も聞こえないしとどかないと思った▼ワークショップでは、段ボールベッドや、段ボールトイレを町の人と協力して組み立て、一人ではできないことを学んだ。ベッドは、ねるだけではなく、ひなんじょにいる人が少しでも過ごしやすいように工夫されていた▼どんなに訓練をしてもあわててしまうかもしれない。でも、この経験を通して、自分で考え、周りの人と力を合わせて行動することの大切さを実感した。
最近、差別や個性を否定するニュースを耳にすることがある。人種差別、男女差別、障がいへの差別など、今の時代にはさまざまな差別が存在している▼なぜ差別が生まれるのか。「違い」を怖がる、理解しようとしない。ネットの言葉に流される。「普通」に縛られる。そんな理由が思い浮かぶ。私も無意識に小さな差別や偏見を持たないようにしたいと思う▼私の周りを見ると、違いはむしろ面白さの源だと感じる。私のクラスには、突然歌いだす友達がいる。最初は驚いたけれど、今ではその明るさに救われる日もある▼また、毎日違う色やユニークな柄のネクタイをつけてくる先生もいる。その日のネクタイを見るのが、私の楽しみの一つになっている。そして私は、一人の時につい独り言をたくさん言ってしまう▼こんなふうに、私の周りには“普通じゃない”人がたくさんいる。でも、その“普通じゃない”があるからこそ、一人一人の個性が輝き、人は面白いのだと思う。もし誰かがその個性を否定したら、世界はきっとつまらなくなるだろう▼違いを恐れるのではなく、違いを楽しめる人でありたい。そして、いま一度考えてみてほしい。これからの世界で、誰かの個性を否定しない自分の軸を持ち続けたい。
息子が仕事から帰り「風邪ひいた、喉がヒリヒリする」という。今冬初の自家製風邪薬の出番である▼風呂あがりに飲めるよう作る。ネギのみじん切り、すりおろしショウガをたっぷり、少し大きめのわんに削り節、みそも加えて顔が見えたら沸騰した湯を注ぎ熱々をフーフーしながら飲む。風呂と汁で体があったかいうちに湯たんぽを入れた布団に入って眠る。これで今回も翌朝は喉の痛みも消えて元気に出勤した▼これを作った次の休日の昼食はケンサン焼きとなるのが定番。ネギやショウガなど同じ材料にみりんを加えてよく練り、小さめの丸おにぎりの上に載せてオーブントースターでこげ目がつくまで焼き、熱々のほうじ茶をかけて食べる。3個くらいすぐ食べてしまう。子どもの頃、雪がいっぱいの中のおやつ、母が握り父がいろりに鉄のワタシを置き、ズラッと並べて焼いてくれた光景が広がる▼昔からずうっと食べつがれてきた伝統食、郷土食を子どもや孫に食べさせたいと作ってきた。冬にはハリハリ松前漬や大根のニシンこうじ漬、煮菜や納豆ボロ(納豆切り材)などを、私流の工夫変化もつけて楽しみながら作って子どもや孫に送ったりしている。
私が会社に行くまでのところに、中学校があります。農道を歩いていると次々、中学生に追い越されます。「おはようございます」とあいさつすると、「おはようございます」と、元気良くあいさつしてくれます▼自転車で行く3人の男の子たちもいます(ちゃんと、ヘルメットをかぶって)。しかし、時間ギリギリに走っていく男の子もいます。秋になり、私はジャンパーを着て歩いていきます。でも、まだ半そでを着ている男の子もいて、気になります。下ばかりうつむいて歩いている女の子もいます▼私は、私の思うところを手紙に書いて渡しました。私のように勉強しないで、還暦を過ぎても後悔しないように▼それからは時々、笑ってくれるようになりました。夏の頃には、帽子をかぶってました。秋の頃には、早くから秋用の制服を着てました。冬には、ジャンパーを着てました▼今はもう、下を向かないで歩いてくれてます。良かったです。その子も来年は、高校生になるんだろうなと思います▼春になったなら、もう会えません。少し寂しい気もします。でもまた、新しい中学生が入ってきます。その日を楽しみにしようと思います。
3歳の頃じいちゃんの勧めで柔道を始めた。投げては勝ち、抑え込んでも勝った。しかし、高校に進学すると一変。全国から集まったライバルたちに手も足も出なくなった。いつしか擦り傷が増え、控えに回ることが増えた。畳に上がってもすぐに負けてしまう▼そんな時、実家から100箱の絆創膏(ばんそうこう)が届いた。じいちゃんだ。その一つ一つには「諦めるな」「負けるな」といったメッセージが書かれていた▼おそらく私がうまくいってないのを分かっていたのだろう。絆創膏に込めたじいちゃんの愛が伝わった気がした▼それから社会人になるまで柔道を続けた。投げられることもあるし、足を擦りむくこともある。大きく負けることだって。それでも絆創膏を見ると負けちゃ駄目だと思えた▼そう。絆創膏の本当の役割。それはきっとケガから守ることじゃなく、傷ついてもいいよと言ってあげることなんだ。人生における絆創膏とは「俺がついてるから思いきりやってみろ」と安心させること▼私にとっての絆創膏はじいちゃん。今はどれだけ傷ついても、立ち向かえばいいと思える強さがある。それは全部じいちゃんのおかげ。私に寄り添ってくれた、心の絆創膏のおかげだ。決して忘れることはない。
能登半島地震で罹災(りさい)し、アパート生活を余儀なくされた。上に3歳と地震の日に生まれた男の子が2人住んでいて、ドスン、バタンとうるさい時は、聞こえないと思いつつ「静かにしてよ」と天井に向かって毒づいていた▼連れ合いが3歳児にお菓子をあげたことがきっかけでお顔見知りになった。この子がこども園の行きかえりに我が家のベランダの前で「こんどーさーん!」と大きな声で呼んでくれるものだからすっかり仲良くなり、うちに遊びに来るようになった。すると足音の聞こえない日には「病気でもしているのじゃないかな」と心配になった▼4歳になったある日、「近藤さん、新しいおうちに引っ越しちゃうの?」と泣きそうな顔で聞いてきた。「近くだからいつでもおいで、待ってるからね」。すると元気に「うん、行く」と答えた▼今、新しい我が家を地震の日に生まれた2歳児が走り回っている。この子たちのおかげで、私たち夫婦に会話と笑いが増えた▼この一家が3月に引っ越すことになった。「もう寂しいよ」と私が言うと、「いつでも遊びにおいでよ、待ってるからね」と5歳になった子が大人びた顔で言った▼地震で家が壊れ途方に暮れたあの日、こんな出会いがあるなんて想像もできなかった。
昨年1月、96歳で母が他界した。数年前から少しずつ認知症の症状が出始め、近くに住む娘の名前も出てこなくなった。妻から認知症の冊子を手渡されていたがろくに読みもせず、つい声を荒らげたこともあった▼ある日、私が帰宅して玄関のドアを開けると、リビングから大きな歌声が聞こえてきた。妻がショートステイから戻ってきた母に、YouTubeで昭和歌謡を見せていたのだ▼「ただいま」の声も聞こえないほどの大きな声だ。私が帰ってきたのに気づき、やっと「お帰り」を言う。「脳の活性化にいいと思って」と言う妻は、「私もなぜか歌える」と言って一緒になって歌っていた▼「生まれる前の曲だぞ」と私。テレビ画面には字幕で歌詞が出ていたが、昭和40年代の古い画像のせいで私でもよく読み取れない。母は視力も落ちているのでなおさら見えていないはずだが、若い頃にはやっていた曲の歌詞を、間違うこともなく楽しそうに歌っている▼きっと娘の頃に戻って歌っていたのだろう。認知症は腹を立ててもしょうがないことを理解するのに、少し時間がかかってしまった▼亡くなる数日前、面会に行くと「ありがとう」を繰り返した母。一周忌を済ませ、改めて母の遺影を見て思う。楽しい認知症だったね。こっちの方が「ありがとう」だ。
最近は食事に行っても、注文はタブレットや自分のスマホから。できた食事を運んできてくれて「アリガトウゴザイマス」の声もロボットだ▼急速な技術の進歩と人口減の社会についていくのが大変な時代だ。先日、コンビニに戸籍謄本をとりに出かけた。複合機の前に先客の高齢の男性が立っていた▼男性は周りを見渡し店員さんを見ているが、レジをしていて気づかない。後ろから「コピーですか」と私が聞くと「そうなんです。よくわからなくて」と。「私も得意じゃないですが、一緒にしてみますね」と言い、どうにか無事コピーができた▼男性は「あーよかった。みんなの分をコピーできてありがとうね」と楽譜を大事そうに取り出した。私も「いえいえ、お役に立ててよかったです」と答えた。「あ、あったかいわ。あなたの気持ちと一緒で」と男性は印刷された紙を私に差し出してくれた▼そっと触るとほのかに温かかった。「そんなことを言ってもらえて私も温かい気持ちになりました」と2人で笑顔。そんな2人にレジを終えた店員さんも笑顔で軽く会釈をしてくれた▼「一期一会」。人との出会いを大切にその瞬間を丁寧に過ごす、茶道をしていた母の言葉が思い出しながら「人間っていいなあ」とマスクの中でつぶやきながら寒い外に出た。