日本最大級の金銀山
相川金銀山は、鶴子銀山の山師たちが新鉱脈を求めて相川の山に分け入って発見したといわれる日本最大級の金銀山。江戸時代を通じて金は約40トン、銀は約1,800トンを産出。
「佐渡」です
日本海に浮かぶ佐渡島は約856キロ平方メートル(東京23区の約1.4倍)の面積を持つ。
佐渡には55の鉱山があり、金、銀などを産出した。
「佐渡島の金山」を構成する「西三川砂金山」、「相川鶴子金銀山」などは、17世紀からの400年間に金78トン、銀2330トンを産出した。
西三川砂金山は、佐渡の南西部に位置する真野地区にある。12世紀末に成立したとされる「今昔物語集」に、砂金採取が行われていたとの説話もある佐渡最古の砂金山だ。
佐渡を支配した越後の上杉景勝は1589年、西三川砂金山の再開発を行い、豊臣秀吉に産出された砂金を納めた。1593年頃には鉱山の安全と繁栄を願う大山祗神社も建てられた。
佐渡島へ向かう道中や島の暮らしを記した小謡集「金島書」に、佐渡を「金(こがね)の島ぞ」と書き残した人物は?
砂金を産出した笹川集落は16世紀後半、月に砂金18枚(約2.9kg)を税として納めた。このことから、「笹川十八枚村」と呼ばれ、大変な賑わいを見せたといわれている。
地層を掘り崩し、堤にためた大量の水を流して土砂を取り除き、沈んだ金を拾う「大流し(おおながし)」という方法で砂金が採られた。西三川砂金山は、しだいに産出量が減少し、1872(明治5)年に閉山した。
鶴子銀山は、1542年に発見されたとされる佐渡最大の銀山。600カ所以上の採掘の跡が確認されている。
佐渡を支配した越後の上杉景勝は、鶴子銀山に代官を置いて銀山経営を統括させた。上杉氏の佐渡支配によって、鉱山開発は大規模化した。
16世紀中頃に地表近くの鉱石を掘り採る 「露頭掘り」(写真) に始まり、鉱脈を追いかけながら掘り進む 「ひ追い掘り」(写真) 、地下の鉱脈に向けて水平なトンネルを掘る 「坑道掘り」(写真) が伝えられる。
鶴子銀山の発見・開発は、島内の鉱山開発に大きな影響をあたえ、相川で大規模な金銀鉱脈が発見されるきっかけとなった。1763年からは銅の採掘が中心になり1946年に閉山。
相川金銀山は、鶴子銀山の山師たちが新鉱脈を求めて相川の山に分け入って発見したといわれる日本最大級の金銀山。江戸時代を通じて金は約40トン、銀は約1,800トンを産出。
相川で金銀が採れるようになると、島外から多くの人が来島し、17世紀には人口が5万人にまで増え、巨大な鉱山町となった。商人でにぎわった長崎とほぼ同じだったという。
江戸時代に派遣された奉行は100人超。大久保長安(奉行在職1603年~13年)は石見銀山の技術や経営方法を佐渡金銀山に取り入れ、荻原重秀(同1690年~1712年)は疎水坑道「南沢疎水道」を掘削した。