本間雅晴陸軍中将
本間雅晴陸軍中将
本間雅晴中将が米陸軍大尉に宛てて書いた手紙

 第2次世界大戦中、旧日本軍がフィリピンで米軍捕虜らに強いた「バターン死の行進1942年、フィリピン・ルソン島のバターン半島で日本軍に投降した米軍、フィリピン軍捕虜が100キロ以上離れた収容所に連行されたが、栄養失調や日本軍による虐待で多数が死亡。死者数は「約2万人」とも言われる。」の指揮責任を問われ、B級戦犯として銃殺刑に処された本間雅晴陸軍中将(佐渡市出身)が、処刑の数日前に米陸軍大尉に宛てて書いた手紙が、佐渡市の佐渡博物館で初公開された。開戦に反対していた本間が日本政府や軍を批判しており、佐渡博物館では「戦争や軍事裁判に対する思いが赤裸々につづられた非常に貴重な資料。本間の人柄を感じ取ってほしい」としている。

 手紙は米陸軍のカーター大尉宛てで、便せん26枚に鉛筆を使い、英文で書かれている。大尉の遺族から1995年、外務省を通じて本間の遺族に返還された。遺族は公開せずに保管していたが、佐渡博物館が戦後80年の節目での公開を依頼し、了承した。

 手紙の日付は、本間が処刑された46年4月3日の数日前の3月31日。佐渡博物館によると、カーター大尉は裁判にかけられることが決まった頃に接点を持ち、信頼を置いていた人物とみられる。

 手紙には自身の経歴、日本政府や軍事裁判への批判や不満などがつづられている。「東条が...

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