第1弾 上越地域

近代化の礎築く 前島密没後100年

<中> 縁の下 大事業実現に尽くす

迅速性、実行力要人ら着目

新潟日報 2019/06/05

 前島ひそかの功績は、郵便制度の立ち上げにとどまらない。歴史上の要人たちと関わりを持ちながら、江戸遷都や鉄道など、数多くの事業の提案と実現に携わった。

 1867(慶応3)年、密が32歳の頃、将軍徳川慶喜が朝廷に大政奉還する。新政府が成立し、新たな政治の中心地選びが始まった。

 このとき、倒幕勢力の有力者だった大久保利通は大坂遷都を提案していた。一方、密は江戸の市街地の広さや、大型の蒸気船をつなげる港があることなどから、遷都は江戸にすべきだと考えていた。

 当時、密は徳川家の家臣だった。実は密は、かつて鹿児島藩で英語教師をしていた頃に大久保と交流があった。旧知の大久保が大坂遷都を訴えていると知った密は、江戸の首都機能を細かにつづった建言書を作り、京都の大久保のもとまで届けた。この提案は大久保らの考えに影響を与え、遷都先は江戸に決まった。

 密は「来輔」と名乗っており、大久保はこの送り主が前島密だとは気がついていなかった。後に大久保が内務卿となり密が部下として働くうち、数年後にようやく両者が同一人物だと知ることとなり、大久保は大いに驚いたという。

 上越市の前島記念館の利根川文男館長(71)は「国を支える出来事や事業に数多く携わっているが、決して手柄をひけらかそうとせず、実直に仕事に取り組む人物だった」と話す。

前島密が大久保利通に訴えた江戸遷都論建言のやりとりがまとめられた文書(前島記念館所蔵)

 大政奉還後、新たに誕生した明治政府は日本の近代化を急いでいた。政府のシンクタンク的存在・改正がかりにいた35歳の密は、70(明治3)年、後に総理大臣となる大隈重信に鉄道建設の見積書の作成を依頼される。かつて、静岡藩で運河掘削の案を作った経験が買われたのかもしれない。

 とはいえ、当時の日本には鉄道建設費の基準となる資料がなかった。それでも国のインフラの基礎を築くため、「やってみましょう」と引き受けた。建設費、人件費などの概算にあたり、わずかな期間で「鉄道臆測」を提出したという。

 これをもとに、新橋・横浜間の鉄道建設が着工された。その後も、関西鉄道や、本県を通る北越鉄道(現信越線の前身)などの要職に就き、生涯を通して鉄道事業に尽力した。

 利根川館長は「密がいなくてもいずれは鉄道は敷設されたかもしれないが、実行力、スピード感があったからこそ、日本の近代化が加速していたことは間違いない」と評価する。

 このほか、陸運元会社(現日本通運)の設立、郵便報知新聞(現報知新聞)の創刊、訓盲院(現筑波大学付属視覚特別支援学校)の創立など、1881(明治14)年に下野するまで数々の事業に携わった。その後も、教育、政財界で大きな役割を果たしている。

 密の自伝などをまとめた「鴻爪痕こうそうこん」には、「雪上にある鳥の爪の痕は跡形もなく消えてしまう。人の業績も同じように風化していく」という一節がある。

 上越市の市民団体「前島密翁を顕彰する会」の堀井靖功会長(77)は「自身について多く語らなかったが、手柄に執着せず、目の前の仕事に没頭、前進していったことが多くの業績から伝わってくる。まさに、時代の縁の下の力持ちだった」とたたえている。

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