第1弾 上越地域

近代化の礎築く 前島密没後100年

<下> 後世へ 国思う姿勢 最後まで

多くの功績 全国をつなぐ

新潟日報 2019/06/06

 神奈川県横須賀市の高台にある浄楽寺。太平洋を望むこの寺の境内に、前島ひそかの墓は立てられている。同所では毎年、郵便局退職者らでつくる「日本文明の一大恩人前島密翁を称(たた)える会」が功績をしのび、墓前祭を開いている。

 没後100年の節目となったことしは、命日の4月27日に開催され、郵便局関係者のほか、上越市からも市民団体「前島密翁を顕彰する会」のメンバーが参加した。約400人の参列者たちが焼香台に手を合わせ、功績をしのんだ。

 密の子孫にあたる高田興治さん(71)=東京都=は「血縁の私ですら、謎の多い人物だと思っている。発想、行動力を探れば、現代を生きるヒントになるのでは」と思いをはせる。前島密翁を称える会の吉崎庄司会長(89)は「密の多くの事業を知らない人はまだまだたくさんいる。だからこそ、歴史を掘り起こし、魅力を広く伝えていきたい」と話した。

 当日はあいにくの天気で大雨に降られたが、快晴の日には墓の付近から富士山が望めるという。

 生前、密は富士山を敬愛していた。墓は富士山をモチーフに、末広がりの形となっている。

 1901(明治34)年、密は長女に絵文を贈った。青年期に乗船した幕府の軍艦「観光丸」から見た富士山を描いている。

 「甲板上に出て見た所、雪がれ月は明かで富士山は湾を圧して高く、湾をめぐれる」

 密は長女に、不二子ふじこと名前を付けている。前島密や郷土について研究している辻井善弥さん(87)は「観光丸から見えた白く清らかな富士山は、強く心に残っていたようだ。富士山は、日本を良くしようと密を突き動かした象徴の風景だったのかもしれない」と話す。

墓前で前島密の功績を語る吉崎庄司会長=2019年4月、神奈川県横須賀市の浄楽寺

 1910(明治43)年、密は75歳でほとんどの職を辞し、翌年には同地に隠居所「如々じょじょ山荘」を建て晩年を過ごした。隠居後は、妻の三味線とともに尺八の演奏をたしなんだほか、村民や近隣の子どもたちとの交流も楽しんだという。

 辻井さんの自宅には、密が晩年にしたためたとされる断簡が残されている。そこには、中身がスカスカの紙巻きたばこを販売した大蔵省の専売局への忠告文が書かれていたという。

 辻井さんは「一線を退いた後も、国や社会のためになるなら進言しなければ気が済まない性格だったようだ。生涯一貫して、自分の正しいと思ったことをやり通す姿勢は変わらなかった」と分析する。

前島密が長女に贈った絵文「観光丸懐旧の図と賛」(郵政博物館提供)

 前島密の死去から100年。密が手掛けた郵便や鉄道事業は、日本全土を広く結び、現代にまで続いている。郵政博物館(東京)の井上卓朗館長(64)は「幕末から明治の先が見えない時代でも、常に自分の能力を最大限に使って判断していた」と評価する。「密の築いたインフラは、どれも日本をつないだいわばネットワーク。現代だったらどんな発想をしていたのか、見てみたいほどだ」

 (この連載は上越支社報道部・石口あさひ、古川俊一が担当しました)

【主な参考文献】
▽「知ってる? 郵便のおもしろい歴史」(郵政博物館編著)
▽「ふるさと上越との絆 前島密」(前島密翁を顕彰する会)
▽「前島密 創業の精神と業績」(井上卓朗)
▽「前島密 越後から昇った文明開化の明星」(上越市立総合博物館)

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