第3弾 長岡・見附・小千谷

[未来のチカラ in 長岡・見附・小千谷]

流行を編むまち 見附・ニット物語

<中> 浮沈

挑戦の連続で商機得る 不況、輸入品増産地に打撃

新潟日報 2020/07/17

 見附市が一大ニット産地に成長する歩みは戦後に始まる。

 江戸時代から続く織物産地に、県商工課が「将来性がある」として参入を勧めた。これが呼び水となり、戦時中に廃業していた織物業者らが1946(昭和21)年以降、靴下や肌着を編むニット製造に転身する。

 「産元」と呼ばれる数多くの地方問屋の存在も、草創期を支えた。資金不足の零細業者に糸を提供し、製品で納めさせるなどした。

 見附ニット工業協同組合加盟社で最古参のマックスニットの歩みは、産地の歴史と重なる。

 47年に前身の坂波メリヤスが創業した。坂田政元社長(70)の祖父は戦時中に鉄工所を廃業し、県の呼び掛けで靴下の製造に乗り出した。時期は定かでないが、父の光作さんが1台のセーターマシンを導入し、ニットウエア製造に進んでいった。

 60年代以降、県内外での展示会を通じて見附の業者の技術が商社やアパレルの目に留まり、産元を経由しない直接取引が中心になった。受注は増え、業者は大規模化していった。

 坂波メリヤスは67年、同業2社と合併し、マックスニットを設立、工場を新設した。当時、セーターは売れ筋商品でレナウンなど大手との取引も伸びていった。

最古参のマックスニット。縫製部門では1人が複数の工程をこなすため、移動しやすい立ち作業用のミシンを導入している=見附市今町7

最古参のマックスニット。縫製部門では1人が複数の工程をこなすため、移動しやすい立ち作業用のミシンを導入している=見附市今町7

 ニット組合によると、加盟社の合計生産額は72年に100億円の大台を突破。10年前には19億円にすぎず、飛躍的な成長だった。74年の石油ショックでも大台を維持し、79年には200億円を超えるなど生産は順調に拡大。この間、75年には市の主要産業だった織物を生産額で追い抜いた。

 当時のマックスニットはメンズ一本。坂田社長は「メンズのセーターの春夏物は1割もなく、一年中、秋冬のセーターを作っていた」と振り返る。受注が減り始めたのを機に、レディースへの挑戦を決めた。

 レディースの経験を持つパタンナー、縫製担当者を新たに雇って84年に製造を開始した。メンズの「しっかりした編み地」の感覚が抜けず、製品が「男っぽい」と度々、指摘されるなど試行錯誤が続いた。

 直後から日本経済はバブルに沸く。坂田社長は「お金があるうちに次への備えをしようと考えた」。縫製部門の効率的な作業のため一貫生産ラインを編成し、完成品までの時間短縮を図る縫製システムを導入した。

 短納期で一定数の受注をこなせる能力を得たことが、新たな商機となった。アパレル大手ワールドが、実際に売れた商品を短時間で店頭に供給するSPA(製造小売業)モデルの事業を93年にスタートさせた際、マックスニットには企画段階から声が掛かった。

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 需要の変化に対応してきた見附産地だったが、競争環境は厳しさを増していった。

 組合加盟者の生産額は90年の309億円を最高に減少に転じる。バブル崩壊に伴う需要減に、輸入衣料品の増加が拍車を掛けた。98年には200億円を割り込み、70年代の水準まで下落した。事業に行き詰まり、廃業する業者も続出した。

 マックスニットも96年に売上高の減少が始まる。工場閉鎖など苦渋の選択も余儀なくされた。2000年以降も、メンズゴルフウエアの春夏物の受注を増やしたり、ニット製バッグなどの小物類に参入したりして仕事の確保に努めた。

 苦戦続きの産地。それでも存続のため、有志が10年前にまいた種が着実に根を張り、芽吹きの時を迎えようとしている。

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