[未来のチカラ in 魚沼]
全国有数の豪雪地帯という風土を背景に、1500年にも及ぶ長い歴史を誇る十日町の織物産業。常に時代のニーズを探りながら、織りと染めの両方の技術を持つ「総合産地」として一時代を築いてきた。着物を取り巻く環境が大きく変わった現在でも、絶えず挑戦を続ける産地の気概は変わらず受け継がれている。十日町の織物産業界の今に光を当てた。(十日町支局長・与口幸子)
2016年8月、リオデジャネイロ五輪。屋外プールで行われたシンクロナイズドスイミング(現アーティスティックスイミング)の日本代表チームの演技を、テレビの前で食い入るように見つめる人がいた。十日町市の着物メーカー「関芳」の関口芳弘常務(67)だ。
天照大神(あまてらすおおみかみ)が放つ太陽の光を、金や黄色で表現した鮮やかな水着は、同社が伝統的な着物の染色技術を生かし、プリントした。友禅の型染めの技法を応用した「手捺染(てなっせん)」だ。職人が手作業で染料を布地にすりつける技法で、染料の層を厚くすることで発色を濃くする。
「南米の日差しに負けないように」と井村雅代監督の希望で、全国300社もの中から選ばれたという。そんな大舞台の栄誉にも、関口さんは「何か起きたらと、はらはらし通しだった」と笑う。
伝統的工芸品「十日町絣」を伝承する渡吉織物の渡辺孝一さん。近年は、図案に合わせて色糸を織り込む「すくい」の技術も併用し、表現の幅を広げている
十日町の着物産業は豪雪によって育まれた。糸を扱う上で適度な湿度や、染色に適した軟水の伏流水、信濃川を通じた物流、そして雪国の人々の根気強さを武器に、閉ざされた冬場の収入源として織物は受け継がれてきた。
産地の歴史を十日町織物工業協同組合の吉沢武彦理事長(54)は「革新の歴史」と言う。時代による浮き沈みは幾度もあった。その度に、消費ニーズを探ってかじをきり、ヒット商品を数々、世に送り出してきた。
大きな挑戦の一つが「染めと織りの総合産地」への転換だ。十日町は、染めた糸で織り、柄を表現する「先染め」の産地だった。その織りの産地が、生地を染める、友禅の「後染め」の技法導入に取り組んだ。
きっかけの一つは、1964年の東京五輪だった。産地戦略を模索する十日町の関係者に、コンパニオンの華やかな振り袖姿が、時流を映し出して見せた。
友禅といえば京都の時代。職人による分業制の京都に対し、各社が一貫生産を行っていた十日町は、徹底した合理化を図った。「それが振り袖の大衆化に大きく貢献した」と組合の越村伸弥事務局長(61)は言う。
70年代半ばには京都と肩を並べるほどに成長。後発産地の成功は業界で「奇跡」と評されたという。76年のピーク時には、産地全体の出荷額が600億円を超え、活況を呈した。
◆ ◆
着物離れが進んだ現在、組合員数も出荷額も往時の10分の1以下に減った。だが関係者は「品質では日本一」と口をそろえる。
各社はそれぞれ、磨きあげた独自の技術を持つ。吉沢理事長が社長を務める吉沢織物では、吉祥柄など本格的な古典柄を得意とする。渡吉織物は縦糸と横糸の柄を合わせて織る伝統的工芸品「十日町
着物製造の技術を生かし多角化に挑戦した会社もある。シンクロ日本代表の水着に取り組んだ関芳では、婦人服ブランドなどを中心に手捺染によるプリントを手掛ける。売り上げの1割を洋服生地が占める。
近年はメンテナンスやレンタル着物の保管業など、和装に関わるさまざまな業種が県外から集積。産地の様相に色合いが増した。
「織りと染め」から、着物を取り巻く多彩な総合産地へ。時代に合わせ柔軟に技術を守り育ててきた十日町。「革新の気概」は、なお息づいている。