[未来のチカラ in 魚沼]
開高健。ベトナム戦争従軍取材や釣り紀行で名をはせた行動派作家が亡くなって、今年で30年になる。開高は、魚沼市湯之谷地域の銀山平に魅せられ、長期滞在した。この間、住民と交流し、魚資源の保護活動や食文化など、地域に大きな影響を与えた。開高が残した数々の「遺産」。ゆかりの人々を訪ねて、足跡をたどった。(魚沼総局・小林睦樹)
開高の没後、住民らは北ノ又川のほとりに記念の文学碑を建てた。銀山平へのさまざまな貢献をしのんだ住民らが浄財を募り、実現した。
碑面には、著書の題名にもなった「
銀山湖畔の
水は水の味がし
木は木であり
雨は雨であった
開高は、当地の沢水や岩清水を「超一流品」と評した。定宿にしていた「村杉小屋」の元主人佐藤進さん(91)によると、開高が3カ月宿泊した1970年の夏、銀山平には電気も水道もなかった。「宿で使う水は、高低差を利用して沢から引き込んでいた。水道の方が便利だと思ったが、沢水を気に入ってもらえてよかった」と佐藤さん。
白いページには、開高と佐藤さんが夏の終わりに、岩清水の前で語り合う場面が登場する。
村杉小屋主人の佐藤進は、ひとこと「衰えたぜや」といった。
私が顔を洗いながら「秋になるとまたよくなるんじゃないの」とたずねた。
佐藤さんは「雪解けから初夏までの水が、味も量も最高なんだ。そんな説明を開高さんにした」と語る。銀山平の水のすばらしさは、文学碑を通して後世に伝えられることになった。
文学碑の前で、開高との思い出を振り返る佐藤進さん=8月、魚沼市湯之谷地域
文学碑の除幕式は91年7月に行われた。魚沼市の緑川酒造社長大平俊治さん(62)は当日、かつて開高が勤めたサントリーの佐治敬三会長(99年、80歳で死去)の送迎を担当した。大平さんは82年から4年ほど、酒造りの修行でサントリーに勤務し、佐治会長とも縁があった。
式を終え、大平さんの前に現れた佐治会長は号泣していた。そして「どうや、見事な泣きっぷりやろ」と一言。大平さんは「佐治さん流の照れ隠しだったのだろう」と回想する。
佐治会長と開高は、会社のトップと元社員という枠を超えた盟友だった。佐治夫妻が開高の誘いで村杉小屋に泊まり、一緒に釣りを楽しんだこともある。
今年9月下旬、文学碑の周りには、サントリー幹部ら十数人の姿があった。一行を案内したのは大平さんだ。「82年入社の同期を誘って、数年に一回、文学碑を訪れている。開高さんは、同期のみんなにとっても特別な存在だから」
■参考文献 開高健エッセイ選集「白いページ」(光文社文庫)
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<プロフィール>
開高は1930年、大阪市生まれ。大阪市立大卒。54年に寿屋(現サントリー)入社、宣伝部で多くの名コピーを手掛ける。58年に「裸の王様」で芥川賞受賞、寿屋を退職(嘱託に)。65年、ベトナム戦争従軍取材では反政府ゲリラに包囲され、部隊200人のうち生還者は開高ら17人だけだった。70年6~8月、小説「夏の闇」の構想のため銀山平に滞在=写真・開高健記念会所蔵=。75年、奥只見の魚を育てる会が発足、会長に就任する。89年12月、食道腫瘍のため死去、58歳。91年7月、銀山平で文学碑の除幕式が開かれる。