[未来のチカラ in 長岡・見附・小千谷]
当時7歳だった星野栄子さん(82)は平潟神社に逃げ込んだ一人だ。「あの日の出来事は、映像のように鮮明に覚えている」と思い起こす。山本町(現在の春日地区)の自宅を出て、2歳の弟をおぶった母に手を引かれ、神社にたどり着いた。火の粉から逃げるうち、父と5歳の弟を見失った。
「平潟神社でのことはずっと記憶を封じてきた」と話す星野栄子さん。井戸のような場所がどこか、今は分からない=長岡市表町1
3人は井戸のような場所に飛び込んだ。上からも次々と人が入ってきて押しつぶされそうになった。死を覚悟した。ところが井戸に火の粉が落ちてきたため、上の人たちが外へ出た。母が水を含ませたズックで落ちてくる火の粉をよけ、空襲が終わるのを待った。
井戸から引き揚げられると、周囲は一面、黒焦げの遺体だらけだった。父は境内で亡くなり、弟の遺体は見つからなかった。
だが、2人の死とは別に心に引っかかりが残った。なぜ自分が助かったのかを考えるとき、「井戸に私たちより先に入っていた人がいた」という事実から目を背けられない。上から押しつぶされ、犠牲になっただろう人を思うと、「生き延びたことがつらい。自分が誰かの死に関わったことが苦しい」。記憶を封印するように、長く空襲体験を語ることができなかった。
4年ほど前、母が戦後40年の80年代半ばに書いた手記が見つかった。井戸で自分たちの下に女性が1人いたようだということ、自分たちのために命を落としたことを悼む一文があり、自身の記憶と符合した。「母は苦しみながらも、本当のことを書き残した」と気付いた。
ようやく証言する覚悟ができ、昨年からは小学生にも体験を語っている。「戦争の悲しみを伝えるのが私の使命」との思いを強くしている。
(長岡支社・後藤千尋、写真は富山翼)
私は人を傷つけようとは全く思っていないのに、自分でも分からないまま人の死に関わってしまった。自責の念は今もあり、ずっと打ち明けるのが怖かった。兵隊で戦地に行った人も、人を殺したくないのに殺さなければならなかった。
そういうことが起きてしまうのが戦争というもの。全部がなくなり、悲しいことばかりが起きる。戦争がない世の中が一番良いということを知ってほしい。
毎年、長岡花火を見るとほっとする。境内で亡くなった人も空を見上げている気がする。