第3弾 長岡・見附・小千谷

[未来のチカラ in 長岡・見附・小千谷]

長岡空襲75年 記憶刻む地

<2> 平潟神社

炎包む境内 井戸で一命 他人を犠牲 自責の念今も

新潟日報 2020/07/22

 焼夷しょうい弾が市街地を襲う中、炎から逃れようとした人々は大きな防空ごうがある平潟神社(長岡市表町1)に集まった。炎に包まれた境内を逃げ回り、防空壕で火に巻かれ、300人近くが亡くなった。空襲後は周辺から遺体が集められ、境内が火葬場になった。

 当時7歳だった星野栄子さん(82)は平潟神社に逃げ込んだ一人だ。「あの日の出来事は、映像のように鮮明に覚えている」と思い起こす。山本町(現在の春日地区)の自宅を出て、2歳の弟をおぶった母に手を引かれ、神社にたどり着いた。火の粉から逃げるうち、父と5歳の弟を見失った。

「平潟神社でのことはずっと記憶を封じてきた」と話す星野栄子さん。井戸のような場所がどこか、今は分からない=長岡市表町1

「平潟神社でのことはずっと記憶を封じてきた」と話す星野栄子さん。井戸のような場所がどこか、今は分からない=長岡市表町1

 3人は井戸のような場所に飛び込んだ。上からも次々と人が入ってきて押しつぶされそうになった。死を覚悟した。ところが井戸に火の粉が落ちてきたため、上の人たちが外へ出た。母が水を含ませたズックで落ちてくる火の粉をよけ、空襲が終わるのを待った。

 井戸から引き揚げられると、周囲は一面、黒焦げの遺体だらけだった。父は境内で亡くなり、弟の遺体は見つからなかった。

 だが、2人の死とは別に心に引っかかりが残った。なぜ自分が助かったのかを考えるとき、「井戸に私たちより先に入っていた人がいた」という事実から目を背けられない。上から押しつぶされ、犠牲になっただろう人を思うと、「生き延びたことがつらい。自分が誰かの死に関わったことが苦しい」。記憶を封印するように、長く空襲体験を語ることができなかった。

 4年ほど前、母が戦後40年の80年代半ばに書いた手記が見つかった。井戸で自分たちの下に女性が1人いたようだということ、自分たちのために命を落としたことを悼む一文があり、自身の記憶と符合した。「母は苦しみながらも、本当のことを書き残した」と気付いた。

 ようやく証言する覚悟ができ、昨年からは小学生にも体験を語っている。「戦争の悲しみを伝えるのが私の使命」との思いを強くしている。

(長岡支社・後藤千尋、写真は富山翼)

【動画】 記憶刻む地 (2)平潟神社

戦争ない世の中が一番

星野栄子さんから子どもたちへメッセージ

 私は人を傷つけようとは全く思っていないのに、自分でも分からないまま人の死に関わってしまった。自責の念は今もあり、ずっと打ち明けるのが怖かった。兵隊で戦地に行った人も、人を殺したくないのに殺さなければならなかった。

 そういうことが起きてしまうのが戦争というもの。全部がなくなり、悲しいことばかりが起きる。戦争がない世の中が一番良いということを知ってほしい。

 毎年、長岡花火を見るとほっとする。境内で亡くなった人も空を見上げている気がする。

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