[未来のチカラ in 長岡・見附・小千谷]
「逃げ遅れたことで、結果的に助かったのかな」。白石美千雄さん(83)は柿川に架かる
暑い夜だった。山本町(現在の春日2)の自宅で眠っていて、空襲警報で飛び起きた。当時8歳。身重の母と病気の兄、幼い妹2人は疎開し、家には父初平さんと姉2人の4人がいた。
長岡空襲の夜を過ごした柿川の霞橋に立つ白石美千雄さん=長岡市柳原町
はだしで飛び出すと、辺りは既にごう音と
向かいにあった町内の防空
「霞橋まで行けば何とかなる」という初平さんの判断で、柿川に入った。霞橋は当時の遊郭へつながる道にあり、交通量が多くコンクリート製だった。橋の下なら、熱を防げると考えたのだろう。
ぬらした布団をかぶり、川の石垣に張り付くようにして100メートルほど上流を目指した。「いつ爆撃を受けるか分からない。橋が果てしなく遠くに感じた」。川沿いに立ち並ぶ木造の建物が、みな燃えていた。
膝元ほどの深さの川は、焼夷弾がまき散らす油や火の付いた木片などが流れてきて、燃えているようだった。炎熱と煙の中、橋の下でお湯のように熱い川を手でかき回し、わずかな酸素を吸って息を保った。「狭い川に、何十人もぎっしりと身を寄せ合って朝を迎えた」
霞橋は戦後、3倍ほどに拡幅され、当時の面影はない。川をのぞき、「今、マゴイがいたよ」とつぶやいた。むごい記憶が残る霞橋を訪れることはあまりない。「昔は石垣に手を入れてナマズを捕ったものだ」。しばし、遠くを見つめた。
(長岡支社・野瀬淳子、写真は清水尚之)
生きていればつらいこともあるけれど、空襲で拾った命だから一日でも長く生きたい。絶対に死んではならない、親不孝はしてはならないという思いできた。
40年間、小学校で教師をしたが、今の子どもたちは昔とは違った厳しい環境にあるんじゃないかな。有り余る物に囲まれ、自分で生きる力強さを失っている気がする。
「わが身をつねって人の痛さを知れ」という言葉がある。いじめを受けた人は弱い者いじめをしない。戦争を知る人は戦争を避ける。他人の痛みを思う寛容な心で、いじめも戦争もない世の中にしてほしい。