[未来のチカラ in 長岡・見附・小千谷]
長岡空襲の夜、長岡市柳原町の神明神社では150人以上が犠牲になった。「お神明さま」と地域に親しまれ、防空
近くに住む今泉
空襲後の神明神社の様子を父から聞いた今泉弥さん。手前は犠牲者を悼む慰霊碑=長岡市柳原町
今泉さん一家は、父長治さんの指示で信濃川の堤防に避難した。家財の整理をしてから追い掛けようとした長治さんは、途中で火の海に阻まれ、柿川の橋の下で業火を逃れた。翌朝の神明神社の様子を、弥さんは長治さんから聞いた。
話によると、長治さんが柿川の石垣を上ってすぐの神社境内に出ると、防空壕の辺りから「助けてくれ」と呼ぶ声が聞こえた。壕の入り口付近に黒焦げの遺体が折り重なった山があり、中から押されて動いていた。
「まだ生きている人がいる」と、1人で必死に遺体をどかそうとした。「引っ張ると手や足が抜ける悲惨な状況」だったという。しばらくして10人以上が泥まみれで出てきた。
当時、多くの防空壕では炎や熱風により、中に逃げ込んだ多くの人が亡くなった。だが、長治さんが救助した壕には常に二、三十センチの雨水がたまっていて、中の熱を冷やすことができたこともあり、生き延びた人がいたのだという。
弥さんは後に、この防空壕で命を取り留めた人の手記を目にし、「本当だったんだな」と父の話を思い起こした。
今も神社で手を合わせると、幼い友の顔や思い出が目に浮かぶ。「助かっていれば、どんなふうに生きただろう」。近くの木陰には、境内で亡くなった人の慰霊碑がひっそりと立つ。弥さんが通るたび、新しい花が供えられているという。
(長岡支社・三木ゆかり、写真は清水尚之)
戦争によるつらい思いや苦労を経験するのは私たちの代でたくさんだ。家は空襲で焼け、親戚の家に家族で身を寄せた。衣食住もままならなかった。今、穏やかな普通の生活を送れることが、どれほど幸せなことか実感している。
当時はみんなで助け合わなければ生きていけない時代だった。今の子どもたちにも、困っている人がいたら手を差し伸べ、家族を大事にしてほしい。
長岡戦災資料館で、妻と一緒にボランティアとして空襲体験を話している。歴史の事実と、平和や命の大切さを伝えていきたい。