[未来のチカラ in 長岡・見附・小千谷]
長岡空襲12日前の1945年7月20日朝、1発の大型爆弾が長岡市左近町の畑に落ちた。米軍が原爆の訓練として投下した「模擬原爆」。
長崎の原爆とほぼ同型で、プルトニウムの代わりに火薬が詰め込まれていた。市民4人の命を奪った「もう一つの長岡空襲」として知られる。
模擬原爆の落下地点に立ち、亡き兄弟に思いをはせる横山藤四郎さん=長岡市左近町
横山藤四郎さん(91)は、模擬原爆で兄量作さん=当時(19)=と弟伍三九さん=同(13)=を亡くした。今は太田川沿いの土手となった着弾地点を歩き、「ここに来ると当時を思い出す」と声を震わせた。
眼下に広がる果物畑を見渡し「本当にでかい穴が開いた。穴の向こう側にいる人の顔が見えなかった」と思い返す。
穴は直径18メートル、深さ5メートルに達したとされる。その衝撃は、集落の家々の戸や窓を吹き飛ばした。畑でイモを掘っていた兄弟は即死だった。
藤四郎さんは、宮内地区の工場で働いていた。ガラン、ガランと空を割るようなごう音を聞いた。爆弾が落ちてくる音だった。家に戻り、兄と無言の対面をした。遺体は胸から上しかなかった。国鉄職員だった兄のために、線路の枕木を割って火葬した。「お骨なんてほんの少し。切ねえよ」。弟は遺体さえ見つからなかった。
模擬原爆は全国に49発投下され、県内では柏崎市と阿賀町にも落ちた。長岡は市北部の工業地帯が標的だったが、レーダーが長生橋を蔵王橋と間違え、長生橋に近い左近町の畑を「誤爆」した。左近町は長岡空襲でも甚大な被害を受け、横山さん宅も全焼した。
現在、土手には模擬原爆の被害を刻む石碑が立つ。亡き兄弟の墓石も同然だ。最近は足腰が弱くなり、土手に上がることが難しくなったが、訪れるたびに涙が込み上げる。「戦争は本当に惨めだ。ああいう目に遭った人にしか分からないね」
かつての戦災地は75年がたつ今も、人々に理不尽な記憶を思い起こさせる。平和な日々が絶えることがないように-。
(長岡支社・樋口耕勇、写真は新井田悠)
=おわり=
戦争の惨めさは言葉ではとても言い表せない。私は兄弟を亡くし、家も焼かれた。既に父が他界していたため、16歳で家長となり、定年までずっと働いた。戦後も物がなくてひもじい思いをした。
今の時代は幸せだ。何をするにも便利で、生活の苦労を知る若い人は少ないだろう。だからこそ、戦争の事実をしっかり知ってほしい。長岡空襲の陰に隠れがちな、左近町の模擬原爆の被害も忘れないでほしい。そして、戦争だけは二度と繰り返してはならないという願いを継いでください。