[未来のチカラ in 長岡・見附・小千谷]
長岡市の歴史を語る上で欠かせない人物の一人が長岡藩家老、河井継之助だ。藩政改革に手腕を発揮する一方、1868年の戊辰戦争で長岡を戦渦に巻き込んだとの見方もある。その生涯を描いた映画「峠 最後のサムライ」は今年9月の公開予定が延期されたが、中澤卓也さんが継之助の足跡をたどった。
ガトリング砲の展示の前でポーズを取る中澤卓也さん=長岡市長町1の河井継之助記念館
長岡市長町1の河井継之助記念館は、継之助の生家跡に立つ。長岡市出身の中澤さんは小学生の時に来館したことがある。継之助に関しては「ガトリング砲と、戦争に携わった人という認識だった」と当時を振り返る。
長岡藩主牧野家の家紋「三つ柏」が入った陣羽織を着て、「殿様みたい」とご満悦。戦の時に掲げる藩旗「
長岡藩が所有していたガトリング砲は米国で発明された。中澤さんは1分間に200~300発の連射が可能だという性能の高さを聞き、改めて「すごい」とつぶやいた。
館内の展示では政治家・継之助の一面や、幕末から明治期にかけて活躍した長岡の英傑たちを紹介している。「民は国の本、吏は民の雇い」との考えを当時から持っていた継之助。賄賂や賭博を禁止し、商業の振興を図った。中澤さんは「きっと先を見る天才だったのだろう」と評した。
継之助と「米百俵」の故事で知られる小林虎三郎、戊辰戦争後の復興に尽力した三島億二郎の「三傑」が近所に住み、幼なじみだったことも知った。学芸員の遠山典子さん(65)は「継之助と同じ時代を生き、一緒に学んだり考えたりした人たちが次の長岡をつくった」と解説した。
中澤さんは「小林虎三郎は知っていたが、全然知らない人もいた」と話し、三島らに興味を示した。
継之助が新政府軍と行った和平交渉が決裂し、開戦に至った経緯も説明を受けた。「確かに戦争のきっかけをつくったのかもしれないが、本当はどんな気持ちだったのか」。継之助の本心に思いを巡らせながら、真剣な面持ちで見学した。
「継之助は、今の長岡をつくり上げていく上で、とても重要な思想、発想を持っていた人だった。その周りに知性を持った人が集まり、重要な役割を果たしたのだろう」と語った。
小千谷市平成2の慈眼寺は、長岡藩と新政府軍の和平交渉「小千谷談判」の舞台だ。寺を訪問した中澤さんは、継之助が新政府軍軍監・岩村精一郎と会談した「会見の間」を見学。2人が座ったとされる場所や、会談が30分ほどで決裂したことなどを、住職の船岡芳英さん(65)から聞いた。
中澤さんは「真相は分からないが、嘆願書を渡そうと必死だったり、戦争を避けようと考えていたりと、いろいろな思いを巡らせて、ここに来たのではないか」と継之助を思った。
小千谷から長岡に移り、戊辰戦争時に長岡藩の本陣が置かれた光福寺(摂田屋1)へ。継之助はこの寺から小千谷談判に向かい、決裂後に戻ってきて諸隊長を集め徹底抗戦を宣言した。寺には本陣跡を伝える石碑が立つ。「どんな思いで開戦を宣言したのか、気になる」と神妙な表情で境内を巡った。
慈眼寺の「会見の間」を訪れ、談判に臨んだ河井継之助を思った。右上は継之助の肖像画=小千谷市平成2
かつて低湿地帯だった八丁沖古戦場には、美しい田園風景が広がっている=長岡市北富島
戊辰戦争は激戦だった。落ちた長岡城の奪還を目指し、長岡藩が継之助の立案した作戦を展開した八丁沖古戦場パーク(富島町)を訪ねた。藩兵約700人が当時、低湿地帯だった八丁沖をひそかに渡り、新政府軍を奇襲、約2カ月ぶりに城を奪い返した。
戦場の記憶を伝えるのは公園にある石碑だけだ。辺り一面に緑鮮やかな水田が広がり、農道が伸びる。かつて長岡城があった南西の方角へ歩きながら、「この道も当時の人々が行き来したかもしれない」と思いをはせた。「今まで普通に見ていた長岡の景色が、過去を探ると分かる事実がある。歴史って、そういうところが面白い」