日本海に浮かぶ粟島。自然豊かな孤島は、見える風景も流れる時間も本土とは別世界。純朴な島民は観光客をあたたかく迎え入れる。島と岩船港(村上市)をつなぐ航路は約35キロメートル。最盛期と比べれば海を渡る観光客は少なくなったが、近年はU・Iターンなどの移住・定住が進みつつあり、海の動脈は粟島に新たな風を吹き込んでいる。
<粟島浦村>
人口 346人(2020年9月1日現在)
世帯数 172世帯(同)
面積 9.78平方キロメートル
海岸線 22.3キロメートル
島開き 5月初旬
粟島を出て、白い航跡を引くフェリー。帰路につく旅客は、徐々に小さくなる島の輪郭を眺めながら船旅の風情に浸る=粟島浦村沖
岩船港から粟島へ向かう船内。甲板席で潮風を浴びる家族連れ、座席でゆったりくつろぐ老夫婦、そして勝負時に備え仮眠する釣り人たち。その目的はさまざまだ。大きな汽笛が響き渡ると、島の玄関口となる粟島港がゆっくりと、視界に広がってくる。
粟島浦村は東西4.4キロメートル、南北6.1キロメートルの小さな島。東側に内浦、西側に釜谷の2集落があり、現在約350人が暮らす。
古くから漁業が島民の生計を支え、1970年代の離島ブーム以降は、漁業と民宿などの観光業が二大産業となった。「島の歩みは、航路の歩み」と語る島民も多い。
定期航路は53年に就航、当初は岩船港と新潟港の二航路あった。観光客が増え始めた74年に大型船「こしじ丸」が就航すると、観光客を効率的に運ぶために、玄関口は岩船港に一本化された。79年に高速船「いわゆり」が就航すると乗客がごった返した。あまりの忙しさに、当時の乗組員が「土日が恐ろしい」とこぼすほどだったという。一時は70軒もの宿が林立したが、観光客は92年の約5万7千人をピークに年々減少。近年は2万人前後で推移し、宿は約30軒になった。
2018年には観光誘客の可能性を検証するため、新潟航路が44年ぶりに復活。新潟市や首都圏などにPRし、1年目は往復で478人(運航13日間)、2年目は952人(同17日間)が利用した。今年は新型コロナウイルスの影響で中止されたが、新たな客層の獲得に力を入れている。
多様な観光ニーズにどう応えるか。高齢化が進む島民の中には、移住者がもたらす「新たな風」に期待する声もある。
村は13年、地域おこし協力隊制度を導入し、これまでに約50人を採用した。同年、島外の小中学生を受け入れる「しおかぜ留学」も始まり、教育面からも新たな交流が生まれた。
これらの取り組みでは、任期後の協力隊員が定住するケースや、しおかぜ留学の卒業生がUターンするなどの成果も上がった。
19年1月から協力隊員として島に住む高橋修さん(34)=新潟市西区出身=は「(漁業が)子ども時代からの夢だった。全国的に後継者が不足していると聞いて、チャンスだと思った」と話す。ここ10年でIターン者の姿も増え、若者たちは移住者を交えたコミュニティーを形成。一度は途絶えた演芸会を復活させるなど、島を盛り上げようと奮闘している。
「もっと思い切り派手にやってもいい」。若者の姿に、年配者は目を細める。島の未来を担うチカラは、着実に育っている。
毎年恒例の粟島一周エコマラソンの参加者らを盛大に見送る島民ら。フェリーが遠くなっても大漁旗を掲げ、手を振り続ける=2019年4月、粟島浦村
粟島浦村で生まれ育った。海を渡って関東の大学に進学し、卒業後は都内の飲食店で働くなどしたが、28歳で再び海の道で島に戻った。当初は「また島外へ」との思いもあったが、同時期にUターンした同世代と島の未来を語り合い、決意が芽生えた。「ここでがんばりたい」
もともとはっきりした目標はなかったが、子どもの頃から、民宿の手伝いの中でも料理が好きだった。就職したのは都内の居酒屋。社内には若手が多く、勢いがあった。社員としてがむしゃらに働き、店長を任されるまでになった。
経営ノウハウや仕事に向き合う姿勢など、たくさんの学びがあり充実していた。ただ、プレッシャーが重くのしかかり、心身ともについていかなくなった。2017年、故郷に戻った。
Uターンから1年間は、地域おこし協力隊員として島を見つめ直した。すれ違えば笑顔であいさつをする島民の純朴さは、昔も今も変わらなかった。一方で、観光客へのサービス手法も古いままだと感じた。「島が育んできた“あり方”は素晴らしい。これまで変えていなかった観光の“やり方”を見直せばチャンスがある」。自分なりの答えを見い出した。
18年4月、村役場の職員に採用された。昨夏には地域おこし協力隊員として島にやって来た上越市出身の女性と結婚。今年8月には男の子が生まれ、1児の父となった。
島に戻り4年目。粟島には、新たな仕事や観光資源を生む潜在的な魅力が秘められていると考えている。物事を実現できない理由を「粟島だから」と言い訳にしたくないと強く思うようになった。
「粟島だからできることを増やせば、粟島は一つ上のステージに上がれる」。その思いを胸に、前を見据えている。
「息子が将来、粟島で暮らしたいと思えるような環境をつくりたい」と語る本保慎吾さん=粟島浦村
粟島浦村が直営するレストラン。現在は、地域おこし協力隊員でソムリエの佐藤
地魚をふんだんに使った定食のほか、こだわりの欧風カレー、パスタ、ピザなど多様なメニューが並ぶ。ワインセラーもあり、料理や気分に合った飲み物を薦めてくれる。
佐藤さんは、ほかの協力隊員とともに、島に生息する野生の鹿を使ったジビエ料理も研究しているという。「食を通じて島の魅力を伝える新たな方法を模索中です」とチャレンジを続けている。
営業はランチ11:00~14:00、ディナー17:00~21:00。水、木曜休み。
汽船乗り場2階にある「レストラン憩」。シェフ兼ソムリエの地域おこし協力隊員が来訪者をもてなす=粟島浦村
粟島随一の眺望とされるスポットが、西海岸にある
地名の「仏崎」は、康和年間(1099~1104年)に、島の漁師が、海中から木製の観音像をやすで突いて引き揚げたという言い伝えに由来する。
この十一面観音立像は平安中期の作とされ、高さ約170センチ。「やす突き観音」として内浦地区の観音寺に安置され、1月17日、8月9、17日の年3回、開帳される。
粟島観光協会の松浦拓也さん(43)によれば、島最南端の
新潟百景にも選ばれた仏崎展望台からの眺め。日本海の荒波を受けた西海岸は奇岩が並ぶ=粟島浦村