第3弾 長岡・見附・小千谷

[未来のチカラ in 長岡・見附・小千谷]

災禍越えるまち 長岡・産業物語

<4> 復興

戦災免れた工場群起点 技術と人材で成長導く

新潟日報 2020/07/11

 1945(昭和20)年8月1日。米軍のB29爆撃機の編隊が襲来し、長岡市は16万発を超える焼夷しょうい弾に焼かれ、1488人の犠牲者が出た。焼失した工場も多く、長岡の産業界が受けた被害は甚大だった。それでも、鉄工業をはじめとする企業が集まった北部工場地帯は被害を免れ、戦後復興の足掛かりとなった。

 戦後間もない頃、長岡の鉄工業者が得意としてきた工作機械の製造は、軍需産業につながるとして連合国軍総司令部(GHQ)に規制された。事業者は、需要が増していた紡績機械やミシンなどを造って急場をしのぐ。50年にGHQが方針を転換すると、工作機械の製造が息を吹き返した。

 長岡経済は急成長を遂げる。当時の「市政だより」によると、50年に約25億円だった工業生産額は、54年には約90億円と急伸。もとよりあった事業者が成長しただけでなく、下請けなど小規模事業者が次々に誕生した。

 長岡の産業史に詳しい長岡歯車資料館長の内山弘さん(83)は指摘する。「戦地から長岡に復員した技師も多くいた。技術と人材、そしてずっと工作機械を造ってきたんだという誇り。ものづくりが途絶えなかった理由は、それに尽きる」

蔵王、城岡地区に広がる北部工業地帯。ものづくり産業が集積し、戦後復興の起点となった=1963年、長岡市

蔵王、城岡地区に広がる北部工業地帯。ものづくり産業が集積し、戦後復興の起点となった=1963年、長岡市

 ものづくりを伸ばすには技術だけでなく、裏付けとなる知見が欠かせない。当時、長岡の産業界は研究や人材育成の場を重視。60年代、市内にあった新潟大工学部が新潟市への移転を決めると、長岡市と連携して新たな工業系学府の誘致に動き出した。

 熱意が実り、76年に長岡技術科学大が開学。当初は教授陣の3分の1を企業出身者が占め、産学連携に重要な役割を果たした。

 産業界はその後も幾多の試練に直面し、環境変化に対応していく。70年代の石油危機をきっかけに経済が低成長になると、工作機械メーカーは主力機を汎用はんよう機から、より利益率の高い専用機に移行。現在に続く「多品種少量生産」のスタイルが広がった。

 80年代はコンピューター技術の進展に伴い、工作機械の数値制御(NC)化が進んだ。手動操作では限界があった複雑な加工が実現し、作業の自動化が図られた。

 だが、資本力のある企業ばかりではなかった。「知る限り、長岡でも10社ほどがNC化に対応できずに消えた。工作機械の大転換期だった」と、古参の製造業者は振り返った。

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 その後、長岡には電子産業や半導体産業などさまざまなものづくり企業が集積し、産業は多様化した。産業用ロボットの導入やIT化が進んで製造現場は様変わりし、近年は人工知能(AI)やIoT(モノのインターネット)の登場によって環境の変化に拍車が掛かる。

 技術を継承しつつ、時代の先を読む人材の確保が求められるが、長岡は若者の流出に直面している。長岡技科大を今春卒業した915人のうち、市内に本社や主要事業所を置く企業に就職したのは約30人と3%にすぎない。市内の大学、高専、専門学校全体でも20%程度にとどまる。

 事業者の中には、自ら人材育成に乗り出す動きもある。創業約90年、産地の盛衰を見てきた丸栄機械製作所の会長、岡部福松さん(83)は自社の作業機械を提供し、学生らがものづくりを体験できる場「たくみの駅」を開設した。「長岡のものづくりは人が支えてきた。人材が途絶えれば火は消えてしまう。今が正念場だ」

 災禍に直面するたび、長岡のものづくりを復活させてきた「技術と人材」を次代につなぐ試みは、途切れることがない。

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