新潟出身のブラジル移民には「インテリが多い」という印象を持っている。その筆頭は大先輩「サンパウロ新聞」の編集長の内山勝男さんだろう。

 自著によれば、1910年に盛岡市に生まれ、職業軍人だった父の郷里・上越市に移って高田中学を卒業。親に期待されて在学中に陸軍士官学校を2度受験したが不合格。

 上京後、東京外国語学校スペイン語科に入学するも、中退して30年に自由渡航者としてブラジル移住。兵役逃れのための移住で、何をするかという目的は特になかったと書かれている。

 移民船が神戸港を出航する前夜、有名な福原遊郭に向かい、「思い出の一夜」をすごして朝寝坊。あわてて飛び起きてギリギリ駆けつけ、出帆のドラがなる中でタラップを上った。

 上甲板には陸軍中尉の長兄がサーベルを腰に下げて仁王立ちしており、「キサマどこに行っておったのか!」といきなりビンタを食らった。わざわざ神戸まで見送りに来てくれた兄に返す言葉もなかったそうだ。

 兄は餞別(せんべつ)としてすっと1本のズボンを差し出した。そのズボンの内側には英国の1ポンド金貨が30~40枚ぎっしり詰め込んであった。さらに「祖父からの言づて」として、財産の分け前5千円を横浜正金銀行リオ支店に送金したと伝えられた。総理大臣の月給が800円の時代だった。

 2年後に聖州新報社で邦字紙記者を始め、戦後は46年のサンパウロ新聞創立から参加して長年編集長を務めた。

 私がブラジルに来た92年当時は編集主幹としてコラムを執筆しており、右も左も分からない私には雲の上の存在だった。2004年に94歳で亡くなる数日前まで書き続けた。本人は「軟派青年」と卑下して書いているが、明治の日本人そのものに見える。今どき日本でも珍しい「生涯現役記者」のかがみといえる越後人がいたことを知ってほしい。

原稿を書く内山勝男さん(内山家所蔵)


深沢 正雪さん(邦字紙「ニッケイ新聞」編集長)
 (深沢さんは1965年、静岡県生まれ。99年、群馬県でブラジル人労働者と働き、内情を書いたルポが潮ノンィクション賞を受賞。2001年「ニッケイ新聞」に入社し、04年から編集長。本県からの移民の事情にも精通しています)