北朝鮮による拉致被害者、曽我ひとみさん(64)=新潟県佐渡市=が、母ミヨシさん=失踪当時(46)=と佐渡市の自宅付近で拉致されてから、2023年8月12日で45年となった。2002年、北朝鮮が日本人拉致を認めた日朝首脳会談を経て曽我さんは帰国を果たし、04年には夫と2人の娘を日本に迎えた。
だが、その後拉致問題に目立った進展はない。91歳となったミヨシさんの行方も分からない。曽我さんは8月11日までに新潟日報社の取材に書面で応じ、もどかしい思いをつづった。「親世代が存命のうちに全員が帰国することを心から願う。そうでなければ帰ってきても、被害者もその家族も、後悔しか残らない」
曽我ひとみさんと母ミヨシさんが拉致されたのは、1978年8月12日、午後7時半ごろ。お盆の用意のため、近所の雑貨店へ買い物に出かけた帰り道、工作員の男3人に襲われた。曽我さんが母の姿を見たのは、この日が最後だ。
北朝鮮で工作員に「(ミヨシさんは)日本にいるから心配するな」と言われ、現地で暮らした24年間信じ続けた。しかし、帰国した2002年、思い焦がれた母の姿はどこにもなかった。

曽我さん母娘が拉致された現場周辺。発生と同じ時間帯には薄暗くなり、45年たった今も歩いている人はほぼいない=8月10日午後7時30分前
曽我さんは今も、拉致現場からほど近い実家で暮らす。近くを通るたび、袋に詰められて担がれ、船に乗せられた暗い記憶が頭をよぎる。「なんで私が」「母はいつ帰って来られるのだろう」。怒りとミヨシさんへの思いが交錯し、不安に駆られる。
引っ越すという選択肢は、母を思って捨てた。「母が帰ってきたとき、自分の家がすぐ分かるようにしたいし、誰もいないと嫌がるはず。だから、実家を離れることはできない」

2004年を最後に日朝首脳会談は開かれず、拉致問題は暗礁に乗り上げたままだ。拉致という問題に巻き込まれた45年間を「出口のない迷路に迷い込んだ気持ち。悔しくて腹立たしい」と振り返る。理不尽に未来や自由を奪われ、人生を翻弄(ほんろう)されたにも関わらず、自分が拉致された理由すら分からないまま歳月が過ぎた。
未帰国の政府認定拉致被害者の親世代で存命なのは、横田めぐみさん=失踪当時(13)=の母早紀江さん(87)と、有本恵子さん=失踪当時(23)=の父明弘さん(95)の2人だけになった。曽我さんは「親世代の方々は、満身創痍(そうい)になりながら、声の限り救出を訴えてきた。この2人を何としても娘さんに会わせたい」と願う。

曽我ひとみさんを抱く母ミヨシさん=佐渡市
2023年2月、拉致被害者家族会は「親世代が存命のうちに全被害者の一括帰国が実現するなら、日本政府が人道支援を行うことに反対しない」とする新たな方針を決めた。曽我さんも同じ気持ちだ。「政府にはあらゆる手段を使って本気の交渉をお願いしたい。残された時間を無意味なものにしてほしくない」と力を込める。7月には自ら希望して岸田文雄首相と面会し、被害者の早期救出を訴えた。
ミヨシさんは91歳となった。元気で働き者だった母なら、北朝鮮の厳しい環境下での生活も耐え抜いていると信じる。「病気にならないでいてくれれば、何もしなくていい。必ず助け出すから、諦めずにいてください」
◆曽我さん母娘の90代親類、「帰ってくるまで生きる」
曽我さん母娘の親類も、ミヨシさんの帰りを待ち続ける。佐渡市の曽我千鶴子さん(90)、時岡玉枝さん(92)は、かつてミヨシさんと励まし合いながら、仕事や子育てをしてきた。2人は「ミヨシさんが帰ってくるまで生きている」と語る。
ミヨシさんはセメント工場に勤め、農作業の繁忙期には親類の田んぼや畑を手伝った。「作業が丁寧でとても優しく、みんなに慕われる人」と時岡さん。自転車に乗るのが苦手だったといい、千鶴子さんはよく一緒に歩いて出かけ、さまざまな話をした。だが45年前、母娘は突然姿を消した。
その後、ひとみさんは佐渡へ戻った。続いて帰国した娘の美花さん(40)、ブリンダさん(38)は、実家の近所に住む千鶴子さんにとって孫のような存在だ。「2人とも本当にいい子。北朝鮮でもひとみは、自分がミヨシさんにしてもらったことを思い出しながら子育てをしたんだろう」と想像する。
曽我さん母娘、孫娘がそろう瞬間が訪れることを、時岡さんと千鶴子さんは願う。「諦められない。ひとみに親孝行をさせてやりたい」と時岡さん。千鶴子さんは「私は白髪になったがミヨシさんはどうだろうか。『年を取ったな』と笑い合いたい」と続けた。