新潟市で横田めぐみさん1977年11月15日、新潟市立寄居中学1年の時の下校中に失踪。2002年9月の日朝首脳会談で北朝鮮は拉致を認めた。北朝鮮はめぐみさんは「死亡」したとして04年に「遺骨」を出したが、DNA鑑定で別人のものと判明。北朝鮮の説明などに不自然な点が多く、日本政府は生存を前提に再調査を求めているが、北朝鮮は「拉致問題は解決済み」としている。=失踪当時(13)=が北朝鮮に拉致されてから、2023年11月で46年となる。長い歳月を経ても解決しない拉致問題1970~80年代、北朝鮮が日本人を連れ去る国際犯罪を重ねた。工作員の教育などが目的とされる。2002年の日朝首脳会談で金正日総書記が拉致を認めて謝罪。被害者5人が帰国し、8人は「死亡」とされた。日本政府認定の被害者は計17人で、北朝鮮は4人を「未入国」と主張している。日本側は説明に不審な点が多いとして受け入れず、交渉は停滞している。に、向き合う若い世代がいる。
8月に政府主催の拉致問題を考える中学生サミットに参加した新潟市中央区の寄居中3年、藤田孝惇さん(15)と新潟県佐渡市の南佐渡中3年、髙野碧さん(14)。2人は10月、めぐみさんと佐渡市の曽我ひとみさん(64)母娘拉致被害者・曽我ひとみさんは1978年8月12日、母のミヨシさん=失踪当時(46)=とともに北朝鮮に拉致された。2002年、ひとみさんは拉致されてから24年ぶりに帰国を果たしたが、ミヨシさんは日本に戻れないままでいる。ミヨシさんとの再会、帰国を願うひとみさんは署名活動や、佐渡市内の小中学校などで拉致問題を知ってもらうための講演を続けている。の拉致現場を、それぞれ新潟日報社の若手記者と共に訪れた。拉致被害者や家族の生の声にも触れ、「自分に何ができるか」と問い直している。
「声を出しても、波の音でかき消されてしまいそう」。佐渡市の南佐渡中3年、髙野碧さん(14)は、曽我さん母娘が北朝鮮に拉致された佐渡市の国府川河口周辺を歩き、つぶやいた。母娘は1978年8月12日、自宅近くで襲われ、袋に詰められた後、船に運ばれた。「何が何だか分からなかったはず。想像するだけで恐ろしい」と言い、波音が生々しく響く海を見つめた。

髙野さんは、曽我さん母娘が拉致された現場曽我ひとみさんと母ミヨシさんが拉致されたのは、1978年8月12日、午後7時半ごろ。旧真野町(現佐渡市)の国府川河口周辺で被害に遭った。自宅からほど近い近所の雑貨店へお盆の準備のための買い物に出かけた帰り道だった。工作員の男3人に襲われ、袋に詰められて担がれ、船に乗せられた。から直線で約20キロ離れた佐渡南端の小木地区に暮らす。外国からの漂着物が多く、北朝鮮のものとみられる木造船も時々流れ着く場所だ。かつて不審な外国人が見つかったこともあると家族から聞いた。ただ「拉致がどれだけ怖く悲しいものかは、曽我さんの話を聞くまで分からなかった」と振り返る。
小学生の頃から曽我さんの講演を聞き、今年9月には柏崎市の拉致被害者蓮池薫さん(66)の話も聞いた。拉致被害者と会える環境が「当たり前じゃない」ことは、中学生サミットに参加して実感した。拉致をほとんど知らない生徒もいたからだ。「思い出すのも怖いはずなのに、つらい経験を伝えてくれている。思いを無駄にしないために、できることをしていきたい」と力を込める。

曽我さん母娘が拉致された国府川河口周辺に立つ髙野碧さん。波音が響く海を見つめた=佐渡市
横田めぐみさんの弟拓也さん(55)の話を初めて聞くなど、サミットで学ぶことは多かった。ただ髙野さんは、「拉致問題が解決し、今年のような形では開かれなくなるといい」と願う。「みんなが無事に帰ってきて、歴史として学ぶものになってほしい。解決せずに時間だけが過ぎることは、あってはならない」
◆海を越え、思い届いて…
佐渡総局・山田史織(27)
髙野さんと歩いた現場周辺の海岸には、ハングル(主に朝鮮半島で使われる文字)が記された漂着物もあった。「船や飛行機ですぐの距離なのに」。なぜ拉致被害者を救えないのか、素朴な疑問を抱く髙野さんの言葉に考えさせられた。記事が海を越え届くと信じたい。
[合わせて読みたい]曽我ひとみさん「親子再会できなければ後悔しか残らない」