▽歌を聴く(約4分)

▽歌を聴く(約20秒)

 「慣れし故郷を放たれて夢に楽土求めたり」。シューマン作曲(訳詞・石倉小三郎)の合唱曲「流浪の民」の一節を、透き通るような声で歌う。

 歌声の主は横田めぐみさん1977年11月15日、新潟市立寄居中学1年の時の下校中に失踪。2002年9月の日朝首脳会談で北朝鮮が拉致を認めた。北朝鮮はめぐみさんは「死亡」したとして04年に「遺骨」を出したが、DNA鑑定で別人のものと判明。北朝鮮の説明などに不自然な点が多く、日本政府は生存を前提に再調査を求めているが、北朝鮮は「拉致問題は解決済み」としている。。1977年3月、新潟市の新潟小を卒業した時の謝恩会で同級生たちと合唱し、ソロパートを任された。「天使のような声だった」。当時、新潟小の音楽の教員だった根津順子さん(83)=新潟市西区=はめぐみさんの歌声を懐かしむ。

 友人と海に行けば「海は広いな大きいな」と歌い出し、他クラスの課題曲だった合唱曲をうらやましがって廊下で口ずさんだ。同級生の真保恵美子さん(58)=千葉市=は「何でもないところでもふと歌う。ヨコ(めぐみさん)は日常の中に歌があった」と語る。

 「流浪の民」を歌った日から約8カ月後の11月15日、めぐみさんは進学した寄居中からの帰り道、北朝鮮朝鮮半島の北部にある国。正式名は朝鮮民主主義人民共和国で、通称が北朝鮮。首都は平壌。外務省によると人口は約2578万人(2020年、国連統計部)で、国土の広さは日本の3分の1ほど。朝鮮労働党の指導の下で国家活動を行うとされ、党の総書記は金正恩氏が務める。日本と外交関係(国交)はない。また日本との間に「拉致問題」が存在するが、北朝鮮は「解決済み」と主張している。工作員北朝鮮のスパイのこと。韓国で活動するため、日本人になりすますスパイもいた。日本人になりすます工作員に日本語や日本の風習を教える必要があったため、北朝鮮は日本人を拉致(無理やり連れ去ること)したとされている。また、拉致した日本人の身分証を使って韓国や世界中でスパイ活動をする目的もあったとされる。に拉致された。13歳だった。

 拉致被害者で佐渡市の曽我ひとみさん1978年8月12日、母のミヨシさん=失踪当時(46)=とともに北朝鮮に拉致された。2002年、ひとみさんは拉致されてから24年ぶりに帰国を果たしたが、ミヨシさんは日本に戻れないままでいる。ミヨシさんとの再会、帰国を願うひとみさんは署名活動や、佐渡市内の小中学校などで拉致問題を知ってもらうための講演を続けている。(64)は北朝鮮でめぐみさんと同じ招待所北朝鮮の首都・平壌の郊外などにある施設。北朝鮮によって拉致された日本人が、ほかの北朝鮮の人々から隔離される形で生活していた。道の構造は逃げ出すことが難しく、監視されながらの生活だったという。工作員の教育場所に使われることもあり、高級な設備があったとされる。で暮らした時期がある。指導員ここでは主に「招待所」で生活する日本人の監視や世話をした人々を指す。被害者の証言では、常に付き添っていたという。拉致被害者へ思想教育や朝鮮語の指導などもしていたとされる。に見つかれば怒られると知りながら、2人はこっそりと日本語で歌った。「毎日毎日、どうしたら日本に帰れるかばかり考えていた。めぐみさんも同じ気持ちだった」と話している。

小学6年のころの横田めぐみさん。家族で佐渡を旅行した時に父・滋さんが撮影した=1976年10月

 流浪の民はロマの放浪の生活を描いた曲だ。故郷から異国に連れ去られ、帰国を望み続けるめぐみさんの境遇に、ソロパートの歌詞が重なる。

 新潟小や寄居中の同級生たちは毎年、再会への誓いを込めてチャリティーコンサートを開いてきた。根津さんら新潟小の元教員も出演してきた。

 めぐみさんが帰らないまま、拉致の発生から間もなく46年となる。来年はめぐみさんと一緒に歌いたい-。誰もが願っている。

▽拉致問題をもっと知る

横田めぐみさんの同級生が開くチャリティーコンサートの合唱練習でピアノを伴奏する根津順子さん=新潟市中央区の寄居中

◆教員仲間、滋さん・早紀江さん夫妻と祝った誕生日
なぜ進展しないのか…「むなしい」

 横田めぐみさんは小学6年だった1976年夏、父滋さん=2020年に87歳で死去=の転勤に伴い、広島から新潟小に転入。持ち前の明るさですぐにクラスメートと打ち解けた。合唱部に所属した。当時別の学年で担任をしていた遠藤正尚さん(76)=新潟市西区=は「歌も、習字も上手。何でもできる子だった」と語る。

 めぐみさんは新潟小を卒業し、寄居中に進んだ1977年の11月15日、突然姿を消した。当時は北朝鮮の拉致という発想は世間になく、家出などもうわさされた。しかし、めぐみさんたちに音楽を教えた同小元教員の根津順子さん(83)=新潟市西区=は「私たち(新潟小の教員)はそんなこと信じなかった」と振り返る。

 めぐみさんの拉致の可能性が浮上すると、在校時に校長だった馬場吉衛さん(故人)が97年ごろ、川崎市に転居していた滋さん、早紀江さん夫妻の元へ出向き、一緒にめぐみさんの誕生日を祝った。

 馬場さんは新潟小時代の教員仲間を誘い、誕生会の輪は広がった。めぐみさんの着物姿の肖像画などいつも心のこもった贈り物があった。

横田滋さん早紀江さん夫妻と撮った写真を見ながら、思い出を振り返る吉井士郎さん(左)と遠藤正尚さん=新潟市西区

 教員仲間の一人で会の幹事だった吉井士郎さん(85)=新潟市西区=は「われわれは脇役だ」と遠慮するが、滋さんと酒を酌み交わし、早紀江さんと手紙をやりとりし、励ました。

 誕生会は2009年ごろまで続いた。その後は、夫妻との交流をめぐみさんの同級生に広げようと橋渡しし、同級生たちは10年から夫妻らを招いたチャリティーコンサートを毎年開くようになった。教員仲間も顔を出し、合唱や演奏で一緒に舞台に立った。

 根津さんは合唱が終わって観客の方を見渡すたびに、夫妻が泣いている姿が目に入った。「同級生を見て『めぐみもこんな風に成長していたんだろうな』と思ったのだろう。その瞬間だけはつらくて」と明かす。

横田めぐみさんの同級生が開くチャリティーコンサートの合唱練習でピアノを伴奏する根津順子さん=新潟市中央区の寄居中

 遠藤さんは「年をとるにつれ、夫妻の思いの深さが想像できるようになった。どれだけ大変だっただろうか」と案じる。コンサートで合唱する時、「翼をください」の歌詞にめぐみさんを重ね、涙が出るという。

 ただ、教員仲間も高齢になり、2011年には馬場さんが死去。めぐみさんを直接知る人は少なくなっていく。滋さんが他界した年齢と同じ87歳になった早紀江さんは今年、体調を崩して入院もした。

 夫妻が不屈の思いで訴え続けたのに、なぜ拉致問題の進展がないのか。これ以上何をすればいいのか。吉井さんは「腹立たしいは通りすぎた。むなしい」と虚無感にさいなまれる。それでも「今はただ早紀江さんのことが心配だ」と気づかい、ともに再会の日を待ち続ける。

(報道部・樋口耕勇)

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 横田めぐみさんら北朝鮮による拉致被害者の帰国を訴える「忘れるな拉致 県民集会」は11月11日午後2時から、新潟市中央区の新潟市民芸術文化会館コンサートホールで開かれます。入場無料。当日参加できます。

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