田中角栄新潟県出身の元政治家。新潟県人ではただ1人の内閣総理大臣経験者。1918年に現在の柏崎市に生まれ、1993年死去。土建業経営などを経て、政界入り。衆議院議員を16期43年務め、郵政大臣、大蔵大臣などを歴任。72年6月に「列島改造論」を出版、翌7月から74年12月までの2年5カ月間、総理大臣を務める。在任中は日中国交正常化などを実現する。金脈問題が取りざたされ、後に辞任。5億円の受託収賄罪などに問われた「ロッキード事件」で起訴される。田中氏は死去により公訴棄却。1989年政界引退。元首相が1993年12月に死去してから30年がたった。新潟県人初の首相となった田中氏は「コンピューター付きブルドーザー」など数々の異名を持ち、永田町や霞が関で実績を上げた。一方、金脈問題やロッキード事件など「政治とカネ」に絡む黒い疑惑もついて回った。光と影二つの面で語られる田中氏の評価について、首相(総理)や自民党総裁の経験者に聞いた。(3回続きの1)
<細川護熙ページ下部に略歴。氏は新聞記者を経て、1969年衆議院議員選挙に初めて立候補した。5人区の旧熊本1区には自民党各派閥の閣僚経験者らがそろっていた>
細川氏 最初に政治の世界を志した時、吉田茂元首相に相談に伺うと佐藤栄作首相(当時)を紹介していただいた。佐藤さんからは「熊本は大変だな。割って入る隙がない。頼るなら角さん(田中角栄元首相)しかいない」と言われ、名刺を頂いた。祖父の家が目白で田中先生と隣組だったこともあり、田中先生は「面白い。やるならしかし、3万軒歩かなきゃいかんぞ」と言われた。
それから月1回、熊本から出てきて報告した。顔を合わせるなり財布をジャケットの内ポケットから出して20万円を「頑張ってやれ」と頂いた。わずかばかりの新聞社の退職金しかなく懐が寂しかったので、ありがたい陣中見舞いだった。
<初めての衆院選では落選したものの、1971年の参議院議員選挙では全国区から自民公認で初当選。派閥は田中派に加わった>

細川護煕氏
細川氏 軽井沢の別荘も隣同士で、よくゴルフのお供をさせていただいた。私は秘密を漏らさないと思われたのでしょう。大平さん(大平正芳元首相)ともご一緒したことがある。田中先生から「大平君の答弁を勉強しておけ。あーうーと言っているようだが、一分の隙もない」と言われたのを覚えている。
<細川氏は参議院議員や熊本県知事などを経て、1993年に衆議院議員に初当選。そして、非自民連立政権の首相となった。同じ年、田中氏が死去。葬儀で「人間的魅力あふれる政治家に薫陶を受けることができたことに深い感謝の念を禁じ得ない」などとする弔辞を読んだ>
細川氏 手が回らず、普段は秘書官が下書きを書くことも多い。しかし田中先生には大変お世話になったので、このときは全部自分で書いた。弔辞にも書いたが、特に日中国交正常化は、田中先生の人柄や力量がなければ成し遂げられない歴史的事業だったと思う。
田中先生の生涯にわたる悲願は、都市も地方も全ての国民が豊かさを享受できることだった。日本列島改造論の均衡ある国土の発展は大変意味のある問題提起だった。
<田中氏は金権政治との批判もあったが、今も待望論が持ち上がる>

細川護煕氏
細川氏 異能の人だった一方で、刑事被告人として亡くなられた。功罪両方あるだろうと思うが、差し引きゼロという政治家ではない。
庶民一人一人に恩恵を届けたいという非常に強い意志を持っておられた。経済成長が低迷し、総中流階級の国民の姿が失われた今の日本で、特に若い政治家には見習ってもらいたい。
<細川内閣はリクルート事件(1988年に発覚)を受け、政治家個人への企業献金を禁止する政治資金改革を実施。しかし現在、自民派閥のパーティー券を巡る裏金疑惑で国民の不信が高まっている>
細川氏 パーティー券については公開基準の改革だけを行った。政府案は5万円超、自民案は50万円超だったが、協議の結果、20万円超を購入した個人や団体が対象となる現行制度になった。現在の自民の問題も透明性が問われており、公開基準の引き下げが求められる。また、政治資金収支報告書は国民が検証できるような仕組みでインターネット公開すべきだ。細川内閣以降、30年間政治改革を怠ってきたツケが回ってきた。
(東京支社・斎藤了一)
◎細川護熙(ほそかわ・もりひろ)1938年東京都生まれ。上智大卒。新聞記者、参院議員、熊本県知事などを経て92年、日本新党を結成。93年に衆院旧熊本1区から当選し、非自民8党派連立政権で第79代首相に就任。94年、小選挙区比例代表並立制を含む政治改革関連法を成立させる。98年に政界引退。陶芸や書、絵画の制作にいそしむ。85歳。