増村朴斎
増村朴斎

 県立高校で唯一、開学の祖を持ち、今年開校130年を迎える上越市板倉区の有恒高校。教育者の増村朴斎(ぼくさい)(1868〜1942年)が1896(明治29)年に設立した「有恒学舎」が始まりだ。

 設立当時、上越地域で小学校卒業後の進学先は高田中学校(現高田高校)しかなかった。地方の農村の子どもたちは十分な教育を受けられず、この状況を憂いた朴斎が私財を投じて開校した。

 東京などから優秀な教師を招き、新潟市出身の歌人で書家の會津八一も英語教師として教壇に立った。政財界や教育現場などに多くの卒業生を輩出し、国内や地元で活躍する人材を育てた。

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 朴斎は、現在の板倉区針の大地主の家に生まれた。神童と呼ばれ、幼少期から書の才能に秀で、12歳で漢詩を作ったとの逸話も残る。地元の小学校を卒業後、何度も上京し漢学などを学んだ。

 地元に戻っていた朴斎は学校設立を決意する。思い立った背景には、4歳の時に亡くなった父・度弘(のりひろ)の影響が大きかった。度弘は会津藩出身で教育者の南摩綱紀の影響を受け、郷土に学校を作ることを目指した。だが、志半ばで度弘は26歳で早世した。

 有恒高同窓会会長の小林正之さん(83)は「父親が地元に学校を作ろうとしていたことを知り、自身も漢学を学ぶ中で教育の重要性に気付いたのではないか」と推測する。

 朴斎は父の遺志を継ぎ、南摩や新潟県出身で東洋大を創設した井上円了を訪ね、学校設立について指導を仰いだ。1895年に県から設立認可を受け、朴斎が29歳の時、有恒学舎を設立した。「有恒」は論語の一節を用い、「常に正しい信念を持ち続ける人間を育てたい」との願いを込めた。

増村朴斎が居住した公宅跡が近くにある有恒高校=上越市板倉区

 朴斎は開校式のあいさつで...

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