1912年4月、北大西洋で豪華客船タイタニック号が氷山に衝突し、海深く沈みました。乗客乗員約2200人のうち約7割の約1500人が亡くなった大惨事に日本人でただ一人居合わせ、しかも生還した男性がいます。本県出身の細野正文さんです。
細野さんが事故に見舞われた直後に書き留めた手記が現在、横浜市の横浜みなと博物館で特別公開されています。114年たった今でも語り継がれるタイタニック号の沈没事故。細野さんはタイタニック号になぜ乗り合わせたのか。どうやって生き延びたのか。帰国後に見舞われた非難とは。細野さんの残した手記や事故当時の新聞紙面、昭和期の本紙などを基に男性の数奇な運命をたどりました。
(佐渡総局・林康寛)
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◆細野さんがタイタニック号に乗り合わせたのは…
細野さんは政府の鉄道院副参事でした。1870年10月に旧保倉村(現上越市)に生まれました。96年に東京高等商業学校(現一橋大学)を卒業し、三菱合資会社に入社。その後、鉄道院に入局し昇進していきました。
1910年10月に鉄道事業の研究のためロシアのサンクトペテルブルクへ留学を命じられ、第1回在外研究員として1年半にわたり滞在。1912年2月に満期を迎えました。
留学を終えた細野さんは帰国の途に就きます。当初はシベリア鉄道で帰国する予定でしたが、急きょ米国を視察して帰るようにと伝えられました。そのため、独・仏・英国を回り、米国経由で帰国することになりました。
米国へ渡る船について、友人でジャパン・ツーリスト・ビューロー(現JTB、日本交通公社の前身)の2代目幹事などを務めた猪股忠次さんに依頼をします。
ジャパン・ツーリスト・ビューローで2代目幹事を務めた猪股忠次さん(出典 日本交通公社七十年史)
細野さんは当初、英リバプールからモレタニア号に乗るつもりでしたが、猪股さんが当時世界最新・最大級のタイタニック号の初航海に話の種にぜひ乗るようにと勧め、切符の購入などの手続きを取り計らってくれました。
1912年4月10日朝、細野さんは猪股さんに見送られる中、ロンドンから船が出港するサウサンプトンに向かい、いよいよタイタニック号に乗船しました。
◆遭難の様子を手記で克明に
細野さんが遭難した際の様子を克明に書き残した手記が、横浜市の横浜みなと博物館に保管されています。細野さんが亡くなった後、遺品整理の際に見つかりました。現在は細野家から博物館に寄託されており、企画展に合わせて14日まで特別公開されています。手記は氷山への衝突、船が沈みゆく惨状、そして細野さんの生死を分けた瞬間をありのままに伝えています。
手記はタイタニック号に備え付けの便箋に書かれました。タイタニック号を建造したホワイト・スター・ライン社(英国)の社旗や、「TITANIC」の文字が印刷されています。細野さんが船から避難した際に着ていた上着のポケットに偶然入っており、遭難者を救助したカルパチア号上で約4000字をしたためました。
4月10日の乗船後、船の様子を伝えようと妻に宛てて英文で書きかけ、途中でやめた跡があります。手記は天地逆に裏面から書き始めています。
沈没したタイタニック号から生還した細野正文さんの手記。便箋裏面から文章が始まり、天地逆に書かれている(横浜みなと博物館提供)
出航から4日後の14日午後11時半過ぎ、タイタニック号は北大西洋のニューファンドランド島沖で氷山に衝突しました。細野さんは手記でその時の様子を「船ガ何カニ突キ当リタル心地セル」「間モナク船停止ス」と表しています。
当時、世界最新・最大級のタイタニック号は「不沈船」と呼ばれており、この時は誰も船が沈むとは想像もしません。細野さんも「オカシキト思ヒナガラ大事件ノ発生セルトハ、思ワズ平気ニ眠リ」としています。
細野正文さんの手記の裏面(横浜みなと博物館提供)
扉をたたく音があり細野さんが開くと、船員がデッキに行くよう言い、救命胴衣を投げ置いて急いで去っていきました。
細野さんが急いでデッキに上がると、乗客が皆、救命胴衣を着けて右往左往しており、誰も何が起こったのか分かりません。船員に言われて一度は下層デッキに下りますが、他に人が下りて来る様子がなく、急いで最上デッキに上ります。
そこで細野さんは、救命ボートが下ろされ、多くの人が集まっている光景を目にし、大事が起きたことを確信します。「生命モ本日ニテ終ルコトト覚悟シ」。細野さんは死を覚悟します。しかし、その中でも決して慌てることなく「日本人ノ恥ニナルマジキ」との自覚がありました。
沈没のその時は刻々と迫ってきます。船からは救難の花火が絶えず打ち上がり、船体は大きく傾いていきます。救命ボートへの乗船は女性が優先され、焦って乗ろうとする男性もいますが、船員が短銃を構えて制止します。
細野さんの生死を分けた瞬間が訪れます。女性や子どもを乗せ終わり、いよいよ最後のボートが下ろされていきます。その時です。下り始めたボートが止まりました。そして船員の「今二人」と叫ぶ声がありました。
すると1人の男性がボートに飛び込みます。細野さんは船員に銃で撃たれる覚悟で飛び込みました。同時にボートは下り始め、海に浮かびました。
タイタニック号の最後は凄惨でした。「船ハト見レバ上甲板丈水面に表ハレツツアルノミ」「スサマジキ爆声起ルコト三四回ナル」「屹然タル大船ハ非常ノ音ヲナシテ全ク其姿ヲ没シ」。沈んだ後にはおぼれている人々の叫び声が上がりますが、次第にその声も聞こえなくなっていきました。
その後、救命ボートに乗った人々は、カルパチア号に救助されました。15〜18日と航海を続け、悪天候に見舞われながらも、18日夜にニューヨークに到着しました。
◆細野さんがタイタニック号に残した物は…
日記には、細野さんがタイタニック号に置き残して沈んでしまった品々を惜しむ様子が書かれています。「各国ノ金貨」「餞別ノ時計」「留学中ノ筆記モノ、日記」などなど。その中の一つにある帽子についての逸話があります。
細野さんがタイタニック号に乗る前のロンドン滞在中、ロンドンの年中行事でケンブリッジ大学とオックスフォード大学対抗のボートレースがあり、友人の猪股さんとテムズ川に見に行きました。
前夜の風雨で波が高かったため、レースではボートが転覆してしまいます。この様子を細野さんは「タイタニック号の乗船前に船の転覆は縁起でもない」と気にとめていました。
レースからの帰り道、橋を渡る時に強風が細野さんの新調の山高帽を吹き飛ばしてしまいます。細野さんはがっかりしますが、猪股さんが「なに、大丈夫。帽子がもう身代わりしたから、どんなことがあっても君は安全だ」と言いました。
細野さんは再び帽子を新調してタイタニック号に乗船します。船に残した帽子は、手記に書かれている帽子のことです。偶然にもこの帽子が、細野さんの身代わりになったのでした。











