わが子を、きょうだいを、再びこの手で抱きしめたい-。北朝鮮による拉致被害者の家族会は1997年3月25日の結成以来、この切実な思いを抱いて声を上げ続けてきた。活動から5年後の2002年、新潟県柏崎市の蓮池薫さん(64)・祐木子さん(65)夫妻、同県佐渡市の曽我ひとみさん(62)ら5人の帰国につながったが、その後は目立った進展がない。再会の日を待ち望みながら多くの家族が高齢となってこの世を去った。無念のうちに亡くなった家族たちが託した「諦めない思い」を伝える。

「取り戻したい」最期まで

横田めぐみさんの父・滋さん(2020年87歳で死去=川崎市)

▽家族会初代代表(1997年3月~2007年11月)

 日銀新潟支店に勤務していた当時、長女めぐみさん=失踪当時(13)=は1977年11月、下校中に新潟市の自宅近くで拉致された。消息が分からないまま20年近くが経過した97年1月、めぐみさんが北朝鮮にいるという情報がもたらされ、妻早紀江さん(86)と涙を浮かべて喜んだ。それは長い闘いの始まりでもあった。

横田めぐみさん

 同年3月の結成と同時に家族会の初代代表に就任した。当時64歳。被害者家族の中では比較的若かった。温和で口べたながらも覚悟を決め、街頭署名や講演など救出活動の先頭に立った。

 2002年の日朝首脳会談で、北朝鮮はめぐみさんを「死亡」と宣告した。会見では「いい結果が出ると楽しみにしていたが…」と号泣した。しかし、後に北朝鮮の情報には信ぴょう性がないことが判明。「死んだなんて信じられない」と再び奮い立った。

横田滋さん(右)と早紀江さん=2018年2月

 晩年の入院中、家族からめぐみさんの写真を見せてもらい「早く北朝鮮から取り戻したいよね」と問いかけられると、弱い口調ながらもはっきりと「そうだよね」と発した。意識は薄らいでも思いは強かった。

 川崎市の自宅には、滋さんがほほ笑みを浮かべた遺影が愛娘の帰宅を待っている。

 早紀江さんは「めぐみが帰国したら抱いてほしい」との思いから納骨をしていない。進展が見られない現状に早紀江さんは「一刻も早く日朝首脳会談を実現してほしい」と政府に迫っている。

横田めぐみさんに関して、北朝鮮は「29歳で『自殺』」と主張している

「諦めない」重責を担って

田口八重子さんの兄・飯塚繁雄さん(2021年83歳で死去=埼玉県上尾市)

▽家族会2代目代表(2007年11月~2021年12月)

 1978年に姿を消した妹の田口八重子さん=失踪当時(22)=は北朝鮮で「李恩恵(リ・ウネ)」として、大韓航空機を爆破した金賢姫元工作員に日本語を教えていたとされることが判明している。

田口八重子さん

 2002年の日朝首脳会談後に家族会に参加。07年からは横田滋さんの後を継ぎ、2代目代表として14年間務めた。公の場での最後の発言となった21年11月の集会で「拉致問題は諦めるわけにはいかない。何とか解決しないといけない」と発言。約6分のあいさつの中で「諦めない」という言葉を3回使い、強い意思を示していた。

飯塚繁雄さん

 集会の5日後に入院したが、病床でも八重子さんの名前をメモに書くなど、最期まで拉致問題のことを気に掛けていた。田口さんの長男で、飯塚さんに養子として育てられた飯塚耕一郎さん(45)は「私もおやじもお互いが八重子さんと抱き合う姿が見たいと思っていた」と悔やむ。

 家族会事務局長として、救出活動に取り組む耕一郎さんは「政府には『諦めない』という気持ちを具体的な行動に移してほしい」と求めた。

田口八重子さんに関して、北朝鮮は「30歳で『交通事故で死亡』」と主張している

「次は母ちゃん」繰り返し

曽我ミヨシさんの夫・茂さん(2005年73歳で死去=新潟県佐渡市)

 1978年、長女ひとみさん(62)と一緒に新潟県真野町(現佐渡市)で拉致された妻ミヨシさん=失踪当時(46)=の帰りを待ち続けた。2002年にひとみさんが帰国を果たし、抱き合って喜んだ。事あるごとに「ひとみが帰ってきてうれしい。ありがとう」と言う一方、「俺は母ちゃんがいないと生きていけないんだ」が口癖だった。

曽我ミヨシさん

 曽我家は体調を崩した茂さんに代わり、ミヨシさんがセメント工場で働き家計を支えた。拉致されたのは、ひとみさんが准看護師として独り立ちして間もなくの頃。職場や親戚ら大勢の手を借りて捜したが何の手掛かりも得られなかった。

曽我茂さん(右)とひとみさん=2002年10月

 02年の日朝首脳会談で、ひとみさんが北朝鮮にいると突如明らかになった。共に失踪したミヨシさんへの思いを報道陣に問われ、「どんけえ(どのくらい)夢を見たか分からん」と語った。「今度は母ちゃんが飛行機から降りてくるんだ」と周囲に繰り返し語っていたという。

 1992年、気持ちのけじめをつけるために、ミヨシさんとひとみさんの「葬儀」をした。その時墓に入れたひとみさんの口紅は、帰国後に取り出した。「次は母ちゃんが使っていた茶わんを掘り出しに行くんだ」と再会を信じ続けた。

 「ひとみが帰ってきたのは家族会の活動のおかげだ」と常々話していた。今はひとみさんが署名運動や講演に力を尽くす。ひとみさんは周囲に「(茂さんをミヨシさんに)一目だけでも会わせてあげたかった」と話す。父の無念も背負い、活動する。

曽我ミヨシさんに関して、北朝鮮は「未入境(入国を否定)」と主張している

願い続けた再会「心残り」

有本恵子さんの母・嘉代子さん(2020年94歳で死去=神戸市)

 三女の恵子さん=失踪当時(23)=は1983年、英国留学を終えた後に欧州で失踪した。日航機を乗っ取り北朝鮮へ渡った「よど号グループ」の妻らによる拉致工作に遭い、「仕事がある」とだまされて北朝鮮に連れ去られた。

有本恵子さん

 88年に同様に欧州から拉致された北海道の石岡亨さん=同(22)=が実家に手紙を送ったことで、北朝鮮にいることが発覚する。

 手紙には恵子さん、松木薫さん=同(26)=と一緒に暮らしていると書かれていた。恵子さんと石岡さんの子とみられる赤ん坊の写真も同封されていた。

 恵子さんの父明弘さん(94)は「手紙はここにいる、助けてくれ、と言っているようだった」と振り返る。

有本嘉代子さん(左)と明弘さん

 手紙という確かな証拠を手に、夫妻は仕事の合間を縫って上京を重ね、政治家や外務省、警察庁などに救出を訴えてきたが、事態は動かなかった。

 97年に家族会が結成されると、同じ母親として横田早紀江さんらと支え合った。明弘さんは「新婚旅行には行けなかったが、家族会ができて2人で北海道から九州まで行った」と語った。

 「もう会えないかもしれない、横田さん…」。見舞いに訪れた早紀江さんにそう打ち明けたこともあるという。娘を思い、揺れ動く気持ちだった。

 明弘さんには病床で「恵子のことが心残りだ」と伝え、最後まで娘との再会を願い続けた。

有本恵子さんに関して、北朝鮮は「28歳で『ガス中毒で死亡』」と主張している