振り絞り「日本を信じる」

増元るみ子さんの父・正一さん(2002年79歳で死去)、母・信子さん(2017年90歳で死去)=鹿児島県姶良市

 1978年、次女るみ子さん=失踪当時(24)=は、交際中の市川修一さんと夕日を見に行ったまま消息を絶った。

増元るみ子さん

 家族会が結成されると、署名活動などに夫婦そろって取り組んだ。弟の照明さん(66)によると、それまで娘に何もできなかっただけに「自分にできることがある」と前向きな気持ちにもなっていたという。

 2002年の日朝首脳会談後、るみ子さんの「死亡」が告げられた。テレビの速報を聞き、泣き崩れる信子さんを正一さんは「北朝鮮の情報を信じるな」としかった。

増元正一さん(左)と信子さん

 その後、照明さんが、るみ子さんに向けた両親の言葉を撮影しようとビデオカメラを向けた。病気で入院中だった正一さんは「迎えに行けなくなった。帰ってきてくれ」と呼び掛けた。信子さんは泣き崩れるばかりだった。

 容態が悪化する中、正一さんは最後の力を振り絞り、「わしは日本を信じる。だからお前も信じろ」と言い残した。照明さんは「その直前まで父はるみ子の夢を見ていた。きっと、るみ子に伝えたかったんだろう」とおもんぱかる。

 正一さんは02年、拉致被害者5人が帰国した2日後、亡くなった。

 正一さんが厳しかった分、信子さんは優しかった。片時もるみ子さんのことを忘れず、病に伏してからも「生きちょっとかね、もう会えんとかね」と娘を心配し続けた。

増元るみ子さんに関して、北朝鮮は「27歳で『心臓まひで死亡』」と主張している

「帰るまで元気で」口癖に

市川修一さんの父・平さん(2014年99歳で死去)、母・トミさん(2008年91歳で死去)=鹿児島県鹿屋市

 1978年に鹿児島県吹上町(現日置市)の海岸で拉致された市川修一さん=失踪当時(23)=の帰国を切望し、修一さんの兄健一さん(76)が拉致被害者家族会で力を尽くせるよう平さん、トミさん夫妻は裏方で支えた。「修一が帰ってくるまでは元気でいなければ」。トミさんの口癖だった。

市川修一さん

 修一さんは交際相手の増元るみ子さん=同(24)=と一緒に夕日を見に行ったまま失踪した。

 95年に元北朝鮮工作員の証言で拉致の情報がもたらされるまで、「家族の間で修一の話はタブーだった」(健一さん)。トミさんが涙を流すからだ。平さんは悲しみをあまり表に出さず、心に抱え込んだ。

市川平さん(左)とトミさん

 家業はスーパー経営。97年に家族会ができると、両親は集会や講演に健一さんが参加しやすいよう、「店はちゃんと守るから、大丈夫だから」と送り出した。「生きているよね。大丈夫だよね」と日々問うトミさんに、健一さんは「大丈夫」と努めて笑顔で応じた。

 トミさんが亡くなる少し前、自宅を新築し、修一さんの部屋も作った。その部屋は、今も修一さんの帰りを待つ。

 健一さんは「今は何も見えない。でも、明るい気持ちでいれば、いつかぱっと視界が開けるんじゃないか」。再会できずに亡くなった父母への思いも胸に、家族会で尽力する。

市川修一さんに関して、北朝鮮は「24歳で『心臓まひで死亡』」と主張している

入院中も「家に帰らせて」

松本京子さんの母・三江さん(2012年89歳で死去=鳥取県米子市)

 1977年に自宅から編み物教室に向かったまま失踪した鳥取県米子市の松本京子さん=失跡当時(29)=の帰国を待ち続けた。晩年は入院生活が続いたが、京子さんがいつ自宅に戻っても寂しい思いをしないで済むようにと、看護師らに「家に帰らせて。早く帰らせて」とせがみ続けた。

松本京子さん

 京子さんの父治美さんは失踪前に亡くなっており、兄孟(はじめ)さん(75)と京子さんの帰りを待つ日々が続いた。「勝手に出て行くような子に育てていない」と娘を信じた。

松本三江さん

 一方、孟さんは「『自分が育てておきながら』と、いなくなった責任も感じていたようだった」と話し、三江さんが苦しい思いを抱えていたと語る。京子さんの拉致被害者認定は2006年。特定失踪者とされた期間も、畑仕事や魚市場での仕事の合間を縫って講演に参加し、「早く会いたい。帰ってきてほしい」と短い言葉で必死に訴えた。

 孟さんは、京子さんが一刻も早く帰国を果たし、せめて墓に眠る父母に報告してほしいと願う。「年齢を考えると、日本でのんびりと過ごす時間もない。本当に時間がない」と切実な思いを吐露した。

松本京子さんに関して、北朝鮮は「未入境(入国を否定)」と主張している

「一目だけでも」待ち続け

松木薫さんの母・スナヨさん(2014年92歳で死去=熊本市)

 松木薫さん=失踪当時(26)=は1980年、語学留学先のスペインで消息を絶った。

松木薫さん

 日朝首脳会談が開かれた2002年、北朝鮮は拉致を認めたが、薫さんは交通事故で亡くなったと説明。弟の信宏さん(49)によると、知らせを聞いたスナヨさんはショックで一晩中泣いていたという。「一目だけでも薫に会いたい」と、再会する日を待ち続けた。

 大学院生だった薫さんは語学留学を熱望していた。父の益雄さんは地元熊本県にとどまってほしいと願ったが、スナヨさんは「行かせてあげてほしい」と一緒に父を説得した。結果的に拉致事件に巻き込まれ、自責の念に駆られていたという。

松木薫さん(右)の家族写真。左が母スナヨさん。前列は弟信宏さん=1980年、熊本市

 拉致の直前、マドリード滞在中の薫さんから家族に絵はがきが届いた。それが薫さんとの最後のやりとりになった。スナヨさんはテレビでスペインの町並みが映し出されるたびに、「薫もここに行ったのかな」とつぶやいていたという。

 晩年には認知症を患ったが、薫さんのことは最期まで忘れなかった。「私が生きているうちは無理でも、お前の時代で解決してほしい」。母の遺志は、信宏さんに託されている。

松木薫さんに関して、北朝鮮は「43歳で『交通事故で死亡』」と主張している

 

「全被害者の一括帰国」ぶれずに訴え

[インタビュー]拉致被害者家族会3代目代表・横田拓也さん

【2021/12/25】

新潟日報社のオンライン取材に応じる横田拓也さん

 1977年に新潟市で拉致された横田めぐみさん=失踪当時(13)=の弟拓也さん(53)が24日、北朝鮮による拉致被害者家族会の代表就任に当たり、新潟日報社のオンライン取材に応じた。初代代表の父滋さん=2020年6月に87歳で死去=、18日に83歳で亡くなった2代目代表の飯塚繁雄さんの思いや姿勢を受け継ぐとし、「全拉致被害者の一括帰国をぶれずに求める」と強調した。(東京支社・渡辺みなみ)

-11日付で家族会の3代目代表に就任しました。

 「飯塚さんと父が穏やかな姿勢で世論や政府に語り掛けてきたことが、ここまで大きな国民運動につながった。2人が歩んできた姿勢を意識していきたい。ただ、本来は政府が先頭を切ってやるべきで、家族が最前線で闘い続けることに違和感がある」

-拉致問題は近年、目立った進展がありません。

 「食料事情や医療環境を考えると、現地で拘束されている人の絶望感は相当なものだ。政府はあらゆる策を講じて取り返してほしい。国会では拉致問題等に関する特別委員会もあるが、議論はほとんどない。人権問題や安全保障の問題などと一緒に考えてほしい」

-未帰国の拉致被害者の「親世代」で存命なのは、めぐみさんの母早紀江さん(85)ら2人となりました。

 「(事件がなければ)笑顔の毎日を過ごせたはずだ。両親は全国を歩き回ったが父は(姉に)会えなかった。一番悪いのは北朝鮮だが、日本が何もしないことはさらに罪だ」

 「仮に母も会えなければ、日本国民は絶対に許さないはずだ。日朝国交正常化ができなければ、北朝鮮も困るだろう。金正恩(キムジョンウン)氏は『チャンスが今しかない』と判断してほしい」

-代表として特に力を入れたいことはありますか。

 「講演会などに出向き、直接語り掛けるという熱量はとても大事だと思う。会社員なので動ける範囲で積極的にやりたい」