リング上で紹介される里村明衣子さん=2015年6月28日、仙台市の宮城野区文化センター

 新潟市西区出身の女子プロレスラー、里村明衣子(めいこ)さん(44)が2025年4月、現役を引退する。センダイガールズプロレスリング(仙台市)の代表を務めながら、国内外のリングで闘い続けてきた。所属団体の解散や東日本大震災など何度もピンチはあったが、新たな挑戦をすることで乗り越えた。引退後は代表と海外団体のコーチに専念し、日本でまだ確立されていないプロデューサーとして道を拓(ひら)く。11月9日は地元の新潟市体育館で最後の試合がある。カウントダウンのゴングを前に、来春で30年に及ぶプロレス人生を振り返った。   

(ニュースセンター・後藤貴宏)

弱冠15歳で“後継”に…「嫉妬を全て力に変えた」

ガイアジャパン入門~初タイトル

 1995年3月、黒埼中学の卒業式に里村さんの姿があった。友人の輪に埋もれていた身長157センチの少女に声をかけると、大きな目が記者の方を向いた。「本当は、新人はサイン禁止なんですよ」と言いながら友人のサイン帳にペンを走らせ、いたずらっぽく笑った。その目は喜怒哀楽の表現が求められるリングで大きな武器となる。

ガイア・ジャパンの入団オーディションに臨んだ里村明衣子さん

 卒業前の95年1月にガイア・ジャパンに入門し、デビューを目指して横浜市の道場で練習していた。ガイアは「クラッシュ・ギャルズ」として一世を風靡(ふうび)した長与千種さんが率いる団体だ。里村さんは新人13人の中から長与さんの付き人に選ばれ、プロとしての礎を築いていく。「(長与さんは)努力する天才。スターなのに、夜中も寝ずに練習していた。15歳で付いたことが、とても大きかった」と振り返る。

ガイア・ジャパンの入門同期。前列中央が里村明衣子さん

 過度な派手さは求めず、基本的な技をしっかり決めるスタイルを目指した。幼い頃から新潟市の北部コミュニティーセンター(当時)で柔道に取り組んだ影響だ。「3歳で受け身をやっていましたから。一番厳しい柔道クラブで育てられた自負はあります」。黒埼中学では自身で柔道部をつくり、県大会で優勝した。プロレスでも打撃や投げ技、関節技の基本を徹底的に練習した。

新潟市で柔道に取り組んでいた頃の里村明衣子さん=1991年

 期待の大きさは、4月の旗揚げ戦でのデビュー時に表れた。長与さんのイメージカラーである「赤」のコスチュームを着用することが認められたのだ。女子プロレス界では「後継」と受け取られる。周囲は15歳の抜てきに穏やかでなかったが、里村さんは「嫉妬を全部、力に変えられました」と当時を懐かしむ。

長与千種さん(右)とタッグを組んだ里村明衣子さん。デビュー1年目=1995年

 体の大きな相手に押されても立ち向かう気迫、その表情の変化がファンを引きつけた。頭を打って意識を失いかけながら、相手の腕を離さず関節技でギブアップを奪った試合では、タッグを組んだ長与さんが取材に対し「私の方が大切なものを思い出させてもらった」と感心していた。

 2001年にアジャコングさんを破り初のタイトルを獲得。順調だった歩みは、くしくも団体のトップに立ったことで暗転する。この頃、女子プロレス界全体の人気が低迷し、ガイアも新人選手が育たないことで将来が危ぶまれていた。批判の矛先はエースに向けられ、「里村じゃ、客を呼べない」との声も耳に入った。失意の中、大きなけがもあった。入院中にガイアの解散を知った。

低迷する業界を救うべく…“宿敵”も認めた器量

センダイガールズ旗揚げ~後進育成へ

 転機となったのは、東北を中心に活動する「みちのくプロレス」参戦だった。里村さんを中心に女子の新団体を立ち上げる構想が浮上し、仙台市に移住した。06年にセンダイガールズを旗揚げした。自身と新人4人の小さな所帯だった。後に団体の代表に就き、選手と指導者、経営者の三つの顔を持つことになる。

 旗揚げ戦のメインイベントの相手はアジャコングさんだった。正統派ベビーフェース(善玉)の里村さんに対し、典型的なヒール(悪役)のアジャさん。里村さんの持ち味の一つである「受け」のうまさは、抜群のパワーで攻めるアジャさんを相手にしてこそ輝く。この日も脚を負傷して追い込まれながら、最後に逆転の大技を決めて仙台のファンを喜ばせた。

センダイガールズ旗揚げ戦

 二人の名勝負はファンの間で今も語り継がれる。初タイトル獲得、センダイガールズの旗揚げ、初めて県外に進出した09年の新潟大会…。里村さんのプロレス人生の節目に、アジャさんはいつも立ちはだかってきた。

 15年、里村さんのデビュー20年の新潟大会に出場したアジャさんは、取材に対し「数少ない邪魔でしょうがないやつ。目の前に来たら、たたきつぶす」と悪玉らしい賛辞を送った。

 里村さんはアジャさんをどう見ているのか。「業界を背負って立つ選手。国民みんなが知っている」と存在の大きさを認める。「試合では勝ち負けになる。だけど、知名度ではかなわない。その存在を超えるため、自分に何ができるかをずっと考えてきました」

「里村明衣子20周年記念大会」で行われた試合=2015年7月12日、新潟市中央区の新潟市体育館

 導き出した結論は、後進となる人材を育てること、団体としての魅力を高めること。一匹狼(おおかみ)のアジャさんに対し、団体を引っ張ることで差異化を図る道を選んだことが、里村さんの現在地につながっている。

 センダイガールズは11年の東日本大震災で経営危機に直面し、所属選手が離れた時期もあった。だがスカウト活動に力を入れ、レスリングの大学王者を獲得するなどし、現在は選手7人の所帯だ。

 里村さんの指導も時代に応じて変化している。「昔は酒、たばこ、男女交際禁止でしたが、20歳になったら自由にさせています。付き人制度もありません。自由に考え、感性を伸ばしなさいって。彼女たちのセルフプロデュース力、すごいですよ」。練習は厳しく、成長を見守る目は優しく。選手の自立を後押しする。

英国で見た“景色”を日本でも…「次のステージ」へ闘志

WWE進出~現地で抱いた「憧れ」

 里村さんのもう一つの夢が海外進出だった。一度、米国のメジャー団体WWEに売り込みをかけたが、あっさり断れた。それでもめげずに自費で米国遠征し、小さな団体のリングに上がった。その試合が、WWEの英国プロデューサーの目に留まり、英国進出を果たした。

 日本では新型コロナウイルスの感染拡大で興業ができない中、海外で活躍の場を広げた。英国での試合が評価され、かつて断られたWWEのプロデューサーから契約のオファーが届く。21年、日本人として初の選手兼コーチ契約を結んだ。

 主にロンドンでコーチをしながら、米英のマットで闘うことになった。「米プロレス界もショーアップされた時代から本物志向に変わり、日本の技術が高いことが認められた。長く続けてきてよかった」と成果を語る。

投げ技を仕掛ける里村明衣子さん=2015年6月28日、仙台市の宮城野区文化センター

 21年から3年間はWWEとの契約上、日本で試合をせずに海外だけで闘った。英国では元スーパースターがコーチとして後進の指導に当たり、育成システムも確立されていた。その姿に「憧れ」を抱き、「私が目指すべきはこっちではないか」と考えるようになったという。

 帰国してセンダイガールズの試合を見ると、...

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