横田めぐみさん。拉致前年の1976年に家族で佐渡を旅行した際、父滋さんが写した
横田めぐみさん。拉致前年の1976年に家族で佐渡を旅行した際、父滋さんが写した

 新潟市で1977年に横田めぐみさん1977年11月15日、新潟市立寄居中学1年の時の下校中に失踪。2002年9月の日朝首脳会談で北朝鮮は拉致を認めた。北朝鮮はめぐみさんは「死亡」したとして04年に「遺骨」を出したが、DNA鑑定で別人のものと判明。北朝鮮の説明などに不自然な点が多く、日本政府は生存を前提に再調査を求めているが、北朝鮮は「拉致問題は解決済み」としている。=失踪当時(13)=が北朝鮮に拉致1970~80年代、北朝鮮が日本人を連れ去る国際犯罪を重ねた。工作員の教育などが目的とされる。2002年の日朝首脳会談で金正日総書記が拉致を認めて謝罪。被害者5人が帰国し、8人は「死亡」とされた。日本政府認定の被害者は計17人で、北朝鮮は4人を「未入国」と主張している。日本側は説明に不審な点が多いとして受け入れず、交渉は停滞している。されてから11月15日で47年となった。北朝鮮では一時、新潟県佐渡市の拉致被害者、曽我ひとみさん(65)と生活を共にした。新潟日報社の取材に応じた曽我さんは、当時の様子を思い浮かべ「めぐみさんは強い。絶対に生きている」と言い切った。

 1978年8月12日に佐渡市で拉致された曽我さんは、その年から80年まで、3回にわたり計約8カ月をめぐみさんと過ごした。

 初対面は拉致から1週間が過ぎたころだった。当時、曽我さんは19歳、めぐみさんは13歳。2人にしか分かり合えない境遇をひそかに語った。「絆ができた。私は頼りないお姉さんだったが、めぐみさんは幼いのに強くてしっかりしていた」と記憶は鮮明に残る。

 北朝鮮はめぐみさんを「死亡した」と主張するが、信じない。2002年10月に日本へ帰国する直前の平壌(ピョンヤン)空港で、めぐみさんの娘キム・ウンギョンさんが「お母さんは亡くなった」と話したのも、「向こう(北朝鮮)のことだから言わされている」と感じている。

 めぐみさんと再会したら「行きたい場所に連れて行ってあげたい」。かけがえのない「妹」と、今度は日本で思い出をつくりたいと切望し続けている。

 佐渡市での拉致から間もない1978年8月の半ば過ぎ、曽我ひとみさんは北朝鮮の地で車中にいた。不安と恐怖でいっぱいだった。着いたのは拉致被害者が暮らす招待所。少女に「こんにちは」と出迎えられた。横田めぐみさんだった。その笑顔にほっとしつつ、疑問も浮かんだ。「こんなに小さな女の子がどうしてここにいるんだろう」

めぐみさんと過ごした日々を振り返る曽我ひとみさん=佐渡市

 拉致されたことは、会った日の夜に打ち明け合った。曽我さんは襲われた際に足に擦り傷を負っていた。それを見ためぐみさんが「どうしたの?」と心配したことがきっかけになった。

 曽我さんは母ミヨシさん=失踪当時(46)=と一緒に拉致され、離ればなれになったことを語った。めぐみさんは「部活帰りに曲がり角で襲われた」と明かした。「1回だけその話をした。思い出したくないことだから、最初で最後だった」と思い起こす。

 工作員らに常に...

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