
球春到来ー。その始まりを告げるような大谷翔平の本塁打も生まれ、3月18日には、いよいよ日本でMLB開幕戦シカゴ・カブス対ロサンゼルス・ドジャースが開催される。15日にはイースタン・リーグに参戦しているオイシックス新潟アルビレックスBCの2年目が白星で始まり、1軍の試合も月末には開幕。高校野球などアマチュア野球も含め、ファンにとって待ち遠しかったシーズンが本格化に動き出す。
それなのに、近くを通るたびに寂しさを感じさせるスタジアムがある。能登半島地震で被災し、使えなくなった新潟市中央区の鳥屋野(とやの)球場=鳥屋野運動公園野球場=だ。現在は同じ場所で建て替える方向で議論は進んでいるようだ。
言うまでもなくハードオフ・エコスタジアムができるまで、新潟野球界を中心となって支えてきた舞台。プロ野球も開催され、名勝負を振り返れば切りがない。ただ、先日、イチローさんが長岡悠久山球場でプロ初本塁打を放ったことを紹介したが、若い世代など、意外と知らない県民も多いことに気付かされた。ならば、鳥屋野球場で日米野球が開催されていたことを記憶している人はどれだけいるだろうか。
MLBを代表する選手として日本人プレイヤーが凱旋し、日本のチームと対戦したり、公式戦をしたりするなど考えられなかった頃の記憶、新潟とメジャーリーグをつなぐ歴史を新潟日報の過去紙面から振り返る。(以下、敬称略)
新潟に初めてメジャーリーガーが降り立った!
1968年11月6日・カージナルス対巨人
まずは簡単に歴史をさかのぼりたい。新潟市営の鳥屋野球場は1964年の新潟国体に向けて1963年に完成した。当時、市内には白山球場(現在の県民会館の場所)もあったが、国体では式典運営の都合もあって使用できなかった。老朽化もあり、さらに新潟地震の被害を受けて廃止となる。
国体で高校野球の会場となった鳥屋野球場も、その後の地震でマウンドの陥没や内野スタンドなどに被害を受けたため、早速修繕を余儀なくされた。最初期から地震に翻弄(ほんろう)された球場だった。
一方、古くは沢村栄治の伝説的な好投やベーブ・ルースの来訪もあった日米野球だが、戦後の1949年に再開すると、数年おきに開催されるようになる。この頃の日米野球は、都市部のプロ野球チームの本拠地球場のほか、地方も巡って試合を開催した。MLBチームなどを招き、日本の球団や連合チームが対戦する形式。1968年の開催地として選ばれた一つが鳥屋野球場だった。
セントルイス・カージナルスを招いて行われた第10戦、対戦したのは巨人だ。選手たちの新潟入りの記事が当時の新潟日報に掲載されている。

第9戦を午後1時から富山県営球場で戦った両軍だが、その日の夕方には新潟入り。記事によれば、カージナルスの一団と巨人の川上哲治監督は特別機の「YS-11」で富山空港から新潟空港に移動。ぜいたくな空路だ。一方の巨人の選手は急行「越後」で新潟駅に到着した。王貞治という、この年49本塁打、打率3割2分6厘の2冠に輝いたスター選手でさえ異なる移動方法が、メジャーリーガーの特別さを物語っているのかもしれない。
そして試合翌日に掲載された結果の記事がこれだ。


巨人の先発は名投手・堀内恒夫。長嶋(島)茂雄が不在とはいえ、V9時代ど真ん中の打線だ。対するカージナルスは、この年サイ・ヤング賞でMVPの投手ボブ・ギブソンは顔見せで打席に立っただけだが、先発のカールトンも、のちにサイ・ヤング賞を4回獲得する投手。打線には前年MVPの主砲セペダがいる。セペダは抑えたが、本塁打攻勢で一方な展開に。新潟のファンは大いにメジャーのパワーを感じたことだろう。

上の記事画像は拡大することもできる。細かいところにも懐かしさや発見があるかもしれない。
こんな当時のドタバタぶりもある。また、その下の記事に登場する平光審判は、若き日の平光清さんだろうか。メジャーの審判のすごみを感じさせるエピソードを紹介している。
糸魚川出身の新人王投手vsメジャー打線
1971年11月5日・オリオールズ対巨人

川上哲治監督が「王(貞治)はスランプ」と言った年だが、39本塁打、101打点の2冠でそう言われるのは逆に偉大なのかもしれない。確かに打率は2割7分6厘と伸びなかった。記事でも巨人は「低迷」と書かれ、後半戦の失速を指摘されているが、しっかり優勝しているのだから、当時の巨人への期待の高さもあるのだろうか。
その巨人で「救世主」とまで記事に書かれているのが、投手の関本四十四だ。新潟県の糸魚川出身で糸魚川商工(現糸魚川白嶺)高校から入団。武器のスライダーと度胸あるピッチングで、4年目で10勝11敗、防御率2.14の成績で新人王に選ばれた。

その関本が先発したのが1971年の日米野球第9戦、リーグ3連覇中のボルチモア・オリオールズと巨人の対決だった。この試合まで7勝1分けと圧倒的な強さで、直前の第8戦では平松政次(大洋)、江夏豊(阪神)、張本勲(東映)ら全日本チームにも7-0で完勝したオリオールズ。「人間掃除機」と呼ばれた守備名手の三塁手ブルックス・ロビンソンに、大谷翔平以前に両リーグのMVPを獲得した唯一の選手フランク・ロビンソン、投手陣も4人の20勝ピッチャーとタレントぞろいだった。
そんな試合の記録がこちら。


※投手成績の関本の投球回数2回は間違いと思われる。

「関本、五回ダウン」と見出しにはついているが、五回に3ランを打たれるまでは1失点のみでこらえ、試合をつくったとも言える。「オ軍、気迫で圧倒」の記事を見てみよう。
巨人が2-1とリードして迎えた三回、巨人は一死二、三塁で打者は前の打席痛烈な左中間二塁打した末次。ここでクエイヤーは末次を敬遠して満塁策をとった。末次も「本当にびっくりした」と驚いたこの敬遠は、もちろん来日初のことだ。結果は次の阿野の二ゴロで1点を失ったが“決してお遊びではない”ことを示した場面だった。
(中略)
関本は「ちょっと間違うとやられる。とにかくどのバッターも打ちそうで、リードしていてもいつかはひっくり返されると思っていた」と自慢の強心臓もどこへやら。
関本自身はこんなことを話しているが、メジャーの常勝軍団の「勝利への執念」を引き出したのは、関本のピッチングもあったのではないだろうか。川上監督のコメントは「3点本塁打されたが、あの場面でタマが真ん中にいくようではどうにもならん」と手厳しい…。ただ、巨人は結果的に引き分けにまで結び付けている。ON(王、長嶋)もそろい、延長十回までの接戦。時間切れの決着に観客からはため息も想像できそうだが、満足もしたことだろう。
主役はメジャーリーガーではなく…
1974年11月6日・メッツ対巨人
田中角栄首相が退陣する約1カ月前...