
弥彦神社を訪れた観光客や参拝客は気付かないかもしれない。広大な駐車場から神社へ向かう途中の桜苑の中で、その慰霊碑は雨に濡れていた。「ひたすらにたま安かれといのるかな 悲しみ消えず 雪はとけれど」。1956(昭和31)年1月1日、年を越したばかりのことだった。良き年へと願う思いもはかなく、多数の参拝客らの雑踏事故(群衆事故)により124人の命が失われた。「弥彦事件」とも言われるこの惨事から1月1日で70年。2001年の「明石花火大会歩道橋事故」、22年の「ソウル梨泰院雑踏事故」と類似事故が起きる度に、記憶は呼び起こされてきた。今また70年の節目に合わせ、教訓として振り返り、消えぬ「悲しみ」と向き合いたい。
「地獄絵」
旧巻町(新潟市西蒲区)の男性は、当時24歳でその場に遭遇した。妹とその婚約者と3人で訪れた二年参り。午前0時前に一度お参りし、近くの食堂で休んだ。除夜の鐘を聞いてから、今度は初詣に向かった。
神社の石の鳥居を過ぎた参道で人波にもまれ、身動きができなくなった。「ウォー」という悲鳴。「押すな」という叫び声。ただならぬことが起こったことはわかったが、どうすることもできず、アッという間に、惨事の現場近くに押し流された。随神門前の石段付近は倒れた人の山で平らになっていた。下敷きになった人の腕だけが動き、苦しみにうめく声があった。
巻き込まれた人の多くは「一瞬、体が宙に浮き上がった」「すごい力で体が押され、頭の上を人が歩くような感じだった」という。大きな随神門が揺れたとも、門をくぐろうとする群衆を制止するはしごが瞬時に折られたとも伝えられた。群衆がぶつかり合い、新しい年を祝う神聖な場が地獄絵と化していた。
「見た感じそのものをとても遺族には伝えられないと思った。大勢の人と遺体を運んだが、拝殿のなかは血と泥。どの人も気の毒でした」(新潟日報1985年12月7日「神の前の惨事 弥彦事件から30年」)
男性の周囲で起きていたことを、この事件を扱った裁判の判例を引用して説明する。
戦後10年、年ごとに参拝客は増加していた。地元の要望を受け、...










