秋の北信越大会制覇、明治神宮大会で準優勝、そして夏の甲子園4強入り-。2013年秋から14年夏にかけ、数々の好成績を残した日本文理高。後にDeNAへ進むエース・飯塚悟史を擁し、打撃も「つなぐ野球」を武器に勝負強さを見せたこの世代は、新潟の高校野球史に確かな足跡を刻んだ。

 では、春のセンバツはどうだったのか。前年秋の明治神宮大会で準優勝していたチームだけに、周囲の期待は高かった。しかし、結果は初戦敗退。華々しい戦績の陰に隠れたその敗戦は、実は後にチームがさらに強くなるための「糧」となった。味わった悔しさを、どう強さへと変えていったのか。当時の主将・池田貴将さんと振り返る。

(母校の日本文理高が12年ぶりにセンバツへ出場します)

ここ数年ずっと速報とかで(日本文理の試合結果を)見ていたんで、出られて良かったなと思います!頑張ってほしいです。

(直接試合を見にいくこともありますか)

最後に見に行ったのは、去年の夏ですね。ただ自分が行く試合、行く試合で負けているので、行かないほうがいいのかな(笑)

(日本文理を卒業後はどんな風な道を歩んできましたか)

文理を出てからは東洋大でプレーして、大学卒業後は社会人のバイタルネットで野球をしていました。いまは父の会社で大工をやっています。

期待の裏で「全然勝てなかった」当時の指揮官は…

(2013~14年にかけての話を聞かせてください。新チーム発足後の13年秋の県大会や北信越大会ではいずれも頂点をつかみ、センバツの切符を手にしました)

自分たちの代は2年生の夏も結構試合に出ている選手がいました。自分のほか、飯塚や鎌倉(航)、竹石(稜)…。2年生の時に甲子園に出られたおかげで、全国のレベルを知れたと思います。しかも夏の甲子園の相手は大阪桐蔭です(結果は2―10で完敗)。「こういうチームに勝たないと、全国優勝っていうのは、夢のまた夢」って思っていました。それは自分だけじゃなく、チーム全員がそういう意識だったと思います。

新チームになっても(甲子園を戦った主力が多く残っていたので)期待は大きかったと思います。ただ、実際は新チームになったばかりの頃は全然勝てませんでした。秋の県大会が始まる前の8月に栃木遠征をしたんですけど、そこで大井(道夫)監督にすごい怒られたのを覚えています。

(どうして怒られたんですか)

試合をしてもあんまり勝てなかったんです。強豪ばかりと試合をしていたかというと、そうではなかった。けど、それでも負けて…。相当怒られた記憶があります。

このままじゃいけないっていう、そんな感じでした。もちろん、それまでも手を抜いてやっているわけじゃなかったんですけど、そこからまた気を引き締めたというか。

◆明治神宮大会の敗戦後、そこら中にスコアボードを…

(気を引き締めたところから、秋は県大会、北信越大会と頂点へ駆け上がりました)

頭一つ飛び抜けて勝ってきたっていうよりは、一戦一戦成長していったっていう感覚が大きいですね。点差もそこまでない試合ばかりでした。

2013年秋の北信越大会決勝の新潟日報朝刊記事(タップ・クリックで別画面が開きます)

(秋の北信越大会は、準決勝と決勝で池田さんの2試合連続サヨナラ打で試合を決め、劇的な幕切れで頂点に立ちました)

たまたまです。

ただ、その後の明治神宮大会では、決勝で(8点リードから9点を返される)劇的な負け方も経験したんですけどね(笑)

(明治神宮大会では、県勢最高成績の準優勝と初の頂点まであと一歩に迫りました)

準優勝だったけど、慢心というよりは悔しさの方が大きかったのかなって思います。神宮大会の後は、悔しい負け方だったので、目に見えるところ、そこら中に(8-9の)スコアボードの写真を貼って忘れないようにしてました。

2013年秋の明治神宮大会決勝の新潟日報朝刊記事(タップ・クリックで別画面が開きます)

(結果的に一番長い秋を過ごしたチームとなりました。試合を重ねる中で投打でどういうところが成長していったと感じますか)

ピッチャーのことは中心だった飯塚に聞かないと分からないですけど、バッティングに関しては当時、力を持っている選手が多かった。それでも大振りにならず、個人個人にならないようにみんな意識していました。「つなぐ野球」が文理の持ち味だと思うので、バッター陣はみんな練習からずっと逆方向に打つこととかを意識しながらやっていましたね。

◆優勝候補と言われたセンバツ、結果は…

(春のセンバツでは、...

残り3768文字(全文:5456文字)