オイルショックによる経済混乱の沈静化に向け、改造内閣で福田赳夫氏(左)を蔵相に迎えた田中角栄首相。閣議後の記念撮影で=1973年11月

 「角福戦争」。このフレーズが象徴するように、故田中角栄元首相の“ライバル”的存在として故福田赳夫元首相は新潟県でも有名だ。一般的には、双方に激烈な憎悪があったように受けとめられがちだが、それぞれに近かった人物に尋ねると、互いに一定の敬意を持っており、悪口を言い合っていたようでもない。今月は福田氏が亡くなってから30年。新潟、群馬両県の元首相2人の関係性など改めて探ってみた。(論説編集委員・原 崇)

 福田赳夫(ふくだ・たけお) 1905年群馬県高崎市出身。東大卒。大蔵省(現財務省)で主計局長などを務めた。52年に衆院旧群馬3区で初当選。岸信介政権下では自民党政調会長、党幹事長を歴任した。佐藤栄作政権下でも蔵相、外相など要職を務めた。76年に首相に就き、78年には日中平和友好条約に調印した。78年11月の自民党総裁選に再選を目指して立候補したが敗北した。95年7月、90歳で死去。

 「東大、大蔵省を経て政界入りしたピカピカのエリートという経歴のため『感じが悪い』との先入観を持つ人もいたようですが、実際は庶民的でざっくばらんな親しみやすい人でした」

 福田赳夫元首相をこう語るのは群馬県高崎市の乾溜ガス化燃焼・プラントメーカー「キンセイ産業」社長金子正元氏(86)だ。群馬新潟県人会高崎支部の世話役でもある。見附市出身で長岡工業高を卒業後、親戚の縁で高崎の企業に就職。後に独立し、群馬県中小企業団体中央会の会長も長年務めた。半世紀にわたり赳夫氏、元首相の康夫氏、現衆院議員の達夫氏を後押ししている。

 「創業まもない頃、(会社の)許認可などの件で役所への手続きが難航した際、福田(赳夫)先生に頼ると、あっけないほどスムーズにさばいてくださった。後日、お礼を言うと(私に)何をしたかも忘れているほどで、恩着せがましいところのない方でした」と懐かしむ。

福田赳夫氏の像や写真パネルなどが並ぶ記念室=7月、群馬県前橋市の自民党群馬県支部連合会

 一方、故郷・越後の田中角栄元首相への思いも強い。「(福田氏と田中氏の)どっちの方が良いかなんて、酷な質問です。故郷から離れた地でお世話になった(福田赳夫)先生。徒手空拳で苦学し、日本のために働きに働いた(田中)先生。2人とも私にとってとても大切な存在です」

 田中元首相の後援会「越山会」青年部長を務めた後、衆院中選挙区時代の旧新潟3区から出馬し、衆院議員になった故桜井新氏。当選後は田中派に入ることはかなわず、福田派で福田氏との交流を深めた。

 桜井氏の元秘書、長和秀氏(68)は語る。「福田先生もまた、ざっくばらんな方だった。(当時の)東南アジアなど発展途上国振興や地球規模の人口問題に関心を寄せる年下の桜井の来訪を『おお、来たか』と喜んでくださった。持論を語ったり、桜井の話を聞いてくれたりした」

 半世紀にわたり政界を見続けているジャーナリスト塩田潮氏(79)は、福田氏について「田中内閣時、オイルショック後に緊縮財政を主導した印象が強すぎる。歴史は皮肉だ。本来、福田は積極財政の提唱者だったのだが…」と語る。

 塩田氏によると、福田氏は岸内閣の頃から、後の池田勇人政権の看板政策となる「所得倍増計画」と似た私案を持っていたという。

 「列島改造論に基づく国土開発などを、狂乱物価などで首相任期中に引っ込めざるを得なくなった田中氏。『日本経済は全治3年』と(改造論の施策中断を)訴えざるを得なかった福田氏。経済状況では、ともに最適の出番ではなかったとの無念があったのではないか」と推察する。

 角福戦争といわれてきた2人だが、実際には相手の悪口を周囲に語ることはほとんどなかったようだ。福田氏の元秘書は証言する。「宴席を含め、田中さんの人格を否定するような言葉を聞いたことは一度もありません」

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