田中角栄元首相からもらった色紙を前に、角栄氏の思い出を語る石破茂氏=2017年6月、東京都

 自民党の石破茂総裁(67)が10月1日、衆参両院本会議で第102代首相に選出された。石破氏が「政治の師」と仰ぐのは、新潟県出身の田中角栄元首相だ。鳥取県に生まれた石破氏は、鳥取県知事や参議院議員を務めた父の石破二朗氏亡き後、父と親しかった田中角栄元首相の勧めで政界入りした。自民党幹事長や地方創生担当大臣などを歴任してきた石破氏が、師から学んだものは何だったのか。新潟日報社に語ったインタビューで振り返る。

◆砂防会館が原風景(2013年インタビュー)

 田中角栄元首相は28歳で衆院議員に初当選し、39歳で初入閣、そして54歳で首相就任というスピード出世を果たした。日本列島改造や日中国交正常化などの偉業を成し遂げた一方、ロッキード事件で実刑判決を受けるなど波乱に富んだ政治家人生を送った。新潟日報社は田中元首相の没後20年に当たる2013年12月、石破氏に師の思い出を聞いた。(13年12月15日「新潟日報」掲載、文中の肩書きなどは当時のもの)

-鳥取県知事や参院議員を歴任した父親の石破二朗氏が1981年に亡くなり、田中角栄氏の薦めで政界入りしました。

「選挙で妥協しない田中派の文化を徹底させたい」と話す石破茂・自民党幹事長=2013年12月、東京・永田町

 「田中先生は父の友人で、私は当時24歳で銀行員だった。葬儀に参列してくださったお礼に目白邸に行ったら『いますぐ御会葬御礼の名刺を作って葬儀に来た人全員を回れ』と言われた。何のことかと驚いたら『何言ってるんだ。君は国会議員になるんだ!』とバーンと机をたたかれ、それで政界入りが決まった」

 「83年に(当時の田中派)木曜クラブの派閥秘書になった。衆参同日選が予想された年で、初日の仕事は(派閥の事務所があった)砂防会館の壁一面に候補名を書いた紙を張り、田中派の候補を赤く囲むことだった。幹部の応援日程を調整したり、新潟日報などの記事を集めて情勢分析を書いたり、選挙の兵たん作業を徹底して仕込まれた」

-現在は自民党幹事長として選挙を仕切る立場です。

 「砂防会館での日々が私の原体験だ。当時の田中派は全国の選挙区事情に通じ、選挙のノウハウがきちんと継承されていた。歩いた数、握った手の数しか票は出ない。その思いはいまも変わっていない。幹事長就任以来、あの田中派の文化、選挙で絶対に手を抜かない姿勢を党全体に浸透させようとやってきた」

 「ただ、小選挙区制度下では党の力が強くあるべきだ。当時は田中派の人間しか田中先生の教えに接することができなかった。派閥はあってもいいが、その派閥の人間しか領袖(りょうしゅう)に接することができないというのは、もったいないことだと思う」

ロッキード事件で逮捕される逆風の中、衆院選に挑むため地元入りした田中角栄元首相=1976年11月14日、長岡駅前

-田中氏は「暖国政治打破」を掲げ、政治の光を地方にも当てましたが、地方から都市への人口流出は止まりません。

 「われわれ日本海側の人間にとって道路が良くなり鉄道が良くなり、ふるさとが良くなってほしいという思いは強烈なものがある。新潟も高速道路が通り新幹線ができた。昭和40年代と比べ日本海側は飛躍的に良くなった。にもかかわらず人口減少が止まらないというのはどういうことなのか。それが分からず悩んでいる。東日本大震災でも言えることだが、大災害があったときのバックアップ機能は絶対に必要で、それは日本海側だ」

-自民党は都市型政党に変質したという指摘があります。安倍政権では安全保障などの政策が目立ちます。一方で、アベノミクスの恩恵は都市部に目立ち、地方と都市の格差拡大が懸念されています。

 「自民党は基本的に地方重視の政党だ。課題は地方における雇用と所得だ。先日、岩手に行ってきたが、高卒者の就職内定率は過去10年で最高になっていた。実感はないと言われるが景気は上向いており、数字になって表れてきている。それを全国に広げていく」

 「日本という国家の安全・平和がなければ経済発展も何もない。自民党は安全保障などマクロな政策だけに重きを置いてるわけではない。決して地方をないがしろにしているわけではない」

2013年12月15日掲載(クリック・タップすると大きく表示できます)

◆田中先生「魔神だと思った」(2017年インタビュー)...

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