第107回全国高校野球選手権新潟大会は、決勝で中越が新潟産大付を3-2で下して優勝を決めた。12回目の夏の甲子園出場は日本文理と並んで県内最多だ。中越の優勝を祝うとともに、甲子園での活躍への期待を込め、これまでの11回、甲子園に出場した際の試合を当時の新潟日報紙面で振り返ろうと思う。

 あえて最初に記すが、中越の甲子園での戦績は2勝11敗。決して輝かしい結果ではない。それでも、諦めずに挑戦し続け、伝統を紡いできた先輩球児や監督らの思いが、今につながる。1978年の初出場以前から、半世紀以上も新潟の高校野球界をけん引してきた一校であること自体、大きな功績だ。その軌跡を見つつ、ことしの中越ナインへのエールを送りたい。

1勝の壁

1978年 1回戦 中越0-2広島工

 最初の年は県大会の紙面から。
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1978年の県大会決勝 胴上げされ、宙を舞っているのが鈴木春祥監督
1978年の県大会決勝

 「踏みつけられ、踏みつけられ、やっと甲子園に出られます」ー。中越を長く率いた名将・鈴木春祥監督の言葉から「『悔しさ晴らした』苦節14年目の晴れ舞台」という見出しの記事は始まる。監督となって14年目の夏だった。

 “北越代表制”の時代も経験し、1県1代表となっても甲子園には届かなかった。「1点差で甲子園に行けなかった時は、必ず監督の采配ミスを言われ、苦しかった」。そんな思いが冒頭の言葉に深みを与える。この時の中越の甲子園出場は、県内の私立校で初という意味合いもあった。

 投手出身の鈴木監督が育て上げたのが左腕三本聡投手。「三本が入学してきたとき、この子で勝負しよう。甲子園に行こう」と思ったという。県大会6試合46回で49奪三振、わずか1失点。130キロ台の切れのある直球、緩いカーブ、そして鈴木監督直伝のシュートも織り交ぜた。抜群の制球力も生かし、見事に甲子園初出場の立役者となった。

1978年の県大会決勝を伝える紙面
1978年の県大会決勝を伝える社会面

 そうして迎えた初めての甲子園だった。

1978年、中越の甲子園初戦

 開幕初日の第3試合。広島工を相手に結果は0-2。県大会では無失策だったが、緊張からか、送球エラーで失点。9回には頼みの三本も二塁打を打たれた。ただ、長打はその1本で、ほとんどは内野安打の好投と呼べる内容だった。

 “大会屈指の左腕”とも言われた三本投手は「投げていてこんなに楽しいなあと思ったのは初めてのことですよ」という爽やかなコメントを残した。ただ、この十数年後の新潟日報の取材に対しては、こうも語っている。

「でも、今になって悔しいんですよ。行くだけで満足しちゃってたんですね」

 甲子園に出るまで鈴木監督は「苦節14年」。しかし、中越が甲子園で初勝利を挙げるまで、それからさらに16年を費やすことになる。

1983年 1回戦 中越4-5広島商

1983年、今度は広島商との対戦だった

 2度目の出場。また...

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