車座になり新潟水俣病被害者と意見交換する国定勇人環境政務官(中央奥)=5月31日、新潟市北区
車座になり新潟水俣病被害者と意見交換する国定勇人環境政務官(中央奥)=5月31日、新潟市北区
国定勇人環境政務官(右)に要望書を手渡す被害者団体代表=5月31日、新潟市北区

 思いの丈をぶつけたが、解決につながる言葉は返ってこなかった。5月31日、新潟市北区で開かれた新潟水俣病1965年、新潟県の阿賀野川流域で公式確認された。阿賀野川上流の鹿瀬町(現阿賀町)にあった昭和電工(現レゾナック・ホールディングス)の鹿瀬工場が、アセトアルデヒドの生産過程で生じたメチル水銀を含む排水を川に流し、汚染された川魚を食べた流域住民が、手足の感覚障害や運動失調などを発症する例が相次いだ。56年に熊本県で公式確認された水俣病に続く「第2の水俣病」と呼ばれる。被害者と国定勇人環境政務官との懇談で、被害者側は症状のつらさや差別・偏見の苦しみを語り、早期の問題解決を訴えた。しかし、国定氏は「救済」という言葉を最後まで使わず「対話を積み重ねたい」と繰り返すのみ。公式確認から59年となった日の懇談は、平行線で終わった。

 「もはや時間がない。解決が遅れるほど亡くなる人が増える」。新潟水俣病阿賀野患者会の...

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