葬儀で遺族に語り掛ける本間義國さん。焼香の案内や司会など役割はさまざまだ=新潟市中央区
葬儀で遺族に語り掛ける本間義國さん。焼香の案内や司会など役割はさまざまだ=新潟市中央区
霊きゅう車の内部を清掃する本間義國さん。亡きがらを運ぶため、心を込めて拭く=新潟市中央区

【2021/02/12】

 幼い時から「死」はすぐそばにあった。家に帰って仏間のふすまを開けると、そこには見知らぬ人の亡きがらが安置されていた。合掌して別の部屋に移り、一人で夕飯を食べた。

 「死は日常の延長で、特別なことはない。身近な人と過ごす何げない時間こそが尊くて、大切にするべきですよね」

 本間義國さん(34)は、新潟市の葬儀業「新潟公益社」を営む家に生まれた。新潟市中央区赤坂町1にある現在の本社は、以前は葬儀場だった。そこが本間さんの自宅だった。

 小学生になったばかりの頃から、家に帰るとすぐに、安置されている亡きがらに手を合わせることが当たり前だった。葬儀を目にしない日はなかった。

 社員になってからも、数多くの葬儀を見てきた。次第に、こんなふうに思うようになった。「どんなものが好きで、どんな人が友人なのか。葬儀にはその人の人生が表れる」

■    ■

 いつも元気にしていた祖母の死は突然だった。両親が共働きの本間さんにとって、祖母のミエさんは親代わりの存在だった。

 2008年秋、東京の工業大学で学んでいた本間さんの携帯電話が鳴る。新潟市の葬儀業「新潟公益社」の大黒柱として働いていたミエさんが、亡くなったという知らせ。81歳。大動脈解離による急死だった。

 ミエさんと最後に話したのは亡くなる1週間前。電話がかかってきたが、電波状況が悪かったのか、声がよく聞こえない。会話もそこそこに「またかけるね」と言って電話を切った。だから、その死はなおさらショックだった。

 大学を卒業した後、富山県のメーカーに就職。父で社長の義康さん(68)からは、ことあるごとに「うちを頼むぞ」と言われていた。それでも、「自分の力を試したい」と、あえて一般企業に入社した。

 富山の生産拠点で建材の設計をしていた頃、「あの日」が来た。2011年3月11日の東日本大震災。テレビを通して見る被害の大きさにおののいた。

 幼い頃、日常の延長として当たり前のようにあった「死」。だが唐突にもたらされた、おびただしい数の「死」は自分の知るものと違って見えた。突然祖母を亡くした記憶も重なり、「いつ、誰が、どうなるかなんて分からない」。その思いはより強くなった。

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 それから1年後の12年4月。異動した東京の営業拠点から寮への帰り道だった。先輩とJR総武線に揺られていた時に、義康さんから着信があった。一人、手前の駅で降りて、ホームで1時間ほど話した。会社の将来についてだった。「今はおれがやっているけど、どうなるか分からない」。古参の社員が辞めたタイミングも重なり、義康さんの声は心細そうだった。

 「今まで自由にやらせてもらった」。だからこそ、父に仕事を教わることができるうちに新潟に戻ろう、という思いが芽生えた。忙しい両親の代わりに「兄や姉のように面倒を見てくれた社員のみなさんにも、少しでも恩返しがしたい」。跡を継ぐ。そう決めた。

 メーカーでの仕事に区切りがついた12年7月に退社し、新潟公益社の一員になった。祖父や父が在籍した関西の葬儀会社で3年間の研修をし、葬儀の流れや作法について一から学んだ。

 会社では若手だ。葬儀業に明確なマニュアルや正解はない。まして、今は誰も経験したことがないウイルス禍の中。悲しみだけでなく、不安を感じている遺族への寄り添い方を自問し続ける。「自分の家族が亡くなった時に、どう接してほしいかを常に考えている」

 より一層の真心を持って、遺族のそばにいることが大切だと思っている。

=おわり=

(この連載は長期企画取材班・上林陸来、写真は佐藤勝矢が担当しました)

◎取材を終えて 弔いの根幹変わらず

 故人との別れの場となる葬儀に、新型コロナウイルスはどんな変化をもたらしているのか。それを確かめたいと昨年11月に始めた取材は、足かけ3カ月に及んだ。

 ウイルス禍によって、葬儀は規模の縮小などを余儀なくされた。だが、大切な人の死と向き合う葬儀の根幹は何も変わらない。二つの家族の姿を見て思った。

 家族を亡くし、悲しみに暮れる中にも関わらず、取材に応じてくれた遺族の方々にお礼の気持ちを伝えたい。新潟公益社には、遺族との橋渡しに最大限の協力をしてもらった。

 「ご遺族の方が笑顔になった葬儀は忘れられない」。社員のみなさんが決まって話していた。ウイルス禍の中でも、最期の別れが穏やかな笑顔に包まれるよう願っている。

(上林)