笠原平治さんの位牌に手を伸ばす長田孝宏さん、正子さん夫妻。大好きだった父に毎日話し掛ける=燕市
笠原平治さんの位牌に手を伸ばす長田孝宏さん、正子さん夫妻。大好きだった父に毎日話し掛ける=燕市
ホテルで料理長を務めた笠原平治さんが書き残したレシピ。ホテル時代の同僚は、手書きの文字に懐かしさがこみ上げた=燕市

【2021/02/11】

 畳敷きの小さな部屋に、2020年11月に72歳で亡くなった元コック、笠原平治さんの骨箱は置かれている。

 1月下旬の朝、頭をなでるように、ポンポンと箱に触ってから長田孝宏さん(46)、正子さん(52)夫妻=燕市=が手を合わせる。

 「お父さん、亡くなってから2カ月たったね」「今日も仕事頑張ってくるわ」。朝となく昼となく、父の位牌(いはい)と骨箱に向かい、話し掛けることが2人の日課になった。

 居間につながる畳敷きの部屋は、つい先日まで物置のような状態だった。「仕事が中心のだらしない生活を送っていた」。正子さんは以前を思い返す。

 平治さんが亡くなり、遺骨を自宅に置いてから、暮らしは変わった。

 掃除をしてご飯を炊き、花を飾る。当たり前のようでも、これまでおろそかにしていたこと。それを大切にするようになった。「お父さんが見ているんだからって。やっと大人になったような、そんな感じ」。父の死が、自分たちを律してくれたと正子さんは感じる。

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 新潟市西区の葬儀場。72歳で亡くなった父の笠原平治さんの葬儀の際、写真とともに平治さんの手書きのレシピも置いた。筆記体のフランス語で書かれたものだ。ホテルの料理長を務めていた頃のコックや給仕の人たちも線香を上げに来てくれた。そして、みんなが同じように懐かしがった。「ムッシューの字だね」

 「ムッシュー」。その呼び方を聞いて、長田さんは、自分が小学生になったばかりの頃を思い出した。父はすでに新潟市内のホテルで料理長を務めていた。料理長だけがかぶる、厨房(ちゅうぼう)で一番長いコック帽が格好良く、憧れた。いつか自分も料理の道に進みたい。そう思った。

 高校卒業後、父の勤めるホテルで1年間アルバイトをした後、市内の別のホテルでデザート作りを学んだ。そのホテルを紹介してくれたのも父だった。

 そこから菓子作りの魅力に取り付かれた。25歳の時に、正子さんの実家がある燕市で洋菓子店を立ち上げた。現在は2店舗を営むオーナー兼シェフだ。「今から考えると、あの年で店を開こうっていうのは無謀だったな」。孝宏さんは苦笑いする。

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 ここまで店を続けてこられたのは、自分に「父の血」が流れているからだと感じる。父は仕事に情熱を注いだ人だった。孝宏さんが子どもの頃、休みの日にプールに連れて行ってくれた後、帰宅途中に職場の厨房に立ち寄るほどだった。

 そんな父の後ろ姿を見て育った。孝宏さんも県外での勉強会に参加し、最新の菓子作りの知識を吸収し続けてきた。

 平治さんが入院していた時、正子さんが面会に行くと決まって、孝宏さんへの言づてを頼まれた。「タカちゃんに『頑張りすぎるな、からだ大切にな』と伝えてくれ」と。

 孝宏さんを見つめ、正子さんが言う。自分たちの店の菓子を楽しみにしている多くのお客さんがいる。「この人も私たち家族だけじゃなく、色んな人たちにとっても大切な存在。もっともっと大事にしないといけないなって」。平治さんの死を通して改めて思った。

 葬儀後、平治さんが残したレシピを収めた数十冊のファイルは、骨箱の側に置いた。「きっと独学で身に付けたんですよ」。父が書いたデザートの作り方をめくりながら、孝宏さんは目を細めた。自然と、父のことを考える時間が多くなっていた。

 ただ、生きているうちに、父に憧れたことを伝えたことは一度もなかった。骨箱を前に正子さんが言った。「『孝宏、そう思っていたのか』ってお父さんが言っているよ、どうして伝えなかったの」。孝宏さんは「そんなこと、いちいち言わないよ」と言葉少なに答えた。