新潟水俣病患者の小武節子さんは、阿賀野川沿いの集落で生まれ、子供のころから川魚を食べて育ちました。いつもの生活の中で起きた体の異変、そして外見からは分からない症状だからこそ長く続いた差別や偏見。公式確認から61年がたつ現在も、救済を求めて声を上げる人がいます。原因や今も解決していない理由を、小武さんの人生を軸にイラストで分かりやすく解説します。



当時、阿賀野川には広い砂浜があって、泳ぎ回って遊んでいました。川魚も子供のときから食べていて、松浜から売りに来る人から買っていました。


もっともその頃は川魚以外食べるものはありませんでした。川魚は流域住民にとって重要なタンパク源だったのです。

魚を食べると母乳がよく出るので、周りの人も「食べろ食べろ」とよく言っていました。魚が食卓にのらない日はないぐらい、一生懸命食べました。





当時、3人の子供が学校に行っており、「親が水俣病なんかに認定された」などと言われれば、いじめに遭うかもしれないという心配があり、申請はしませんでした。
それだけ、当時の水俣病患者に対する差別・偏見はひどいものでした。

第1次訴訟が終わってから申請する人が増え、認定基準が厳しくなったのだと思います。

すでに水俣病と認定された夫のいとこが周りから差別されていたことを知っていました。
また、水俣病のことを会社が分かったらクビになるかもしれない、と心配したからです。

魚をもらっていた親族らは認定され、私も水俣病と認めてほしい一心から、新潟水俣病第2次訴訟に参加することに決めました。

13年半という期間はとても長く、救済内容は決して十分とは言えませんでした。しかし、「環境と人間のふれあい館」の建設など、県が「水俣病の教訓を生かす事業」に取り組むきっかけになったことは良かったと思っています。


その後、活動を応援してくれる人もいましたが、この時は訴訟でテレビや新聞に出て活動していた私を、白い目で見ている人もいました。
とても悔しかったことを覚えています。

病気だという風に見てくれないから、
偏見や差別も生まれたのだと思います
かつて、
「水俣病患者は裁判をしてまで金が欲しいのか」
と言われたこともありました
そういうことを伝えたいという思いもあって、
2001年から語り部としても活動してきました
現在も続く第5次訴訟には、
2023年に亡くなった妹も参加していました
原告側も高齢化しています
妹が判決を聞くことができなかった代わりに、
私が良い判決を聞くことができるまで
頑張って生きたいと思います

今回の記事では、小武さんの人生を通して、新潟水俣病問題を分かりやすく伝えてきました。新潟日報デジタルでは、最新の新潟水俣病に関する記事や、過去の連載もご覧いただけます。水俣病問題の理解を深め、早期解決につなげていきましょう。








