もんぺ姿で軍需工場となった鉄工所で働く女子挺身隊=1944年、長岡市(「新潟県民の太平洋戦争」から)
もんぺ姿で軍需工場となった鉄工所で働く女子挺身隊=1944年、長岡市(「新潟県民の太平洋戦争」から)

 戦時下の日本は、戦闘に関わらない一般国民やその生活を総じて「銃後」と呼んだ。兵隊の送り出し、食料や軍用品の生産など、人々の暮らしは後方支援に組み込まれた。子どもたちは労働力とみなされ、学ぶ機会は大きく制限された。戦後80年を迎え、今では聞かれなくなった銃後を、県民の証言からひもとく。(5回続きの4)

 十日町の地場産業である織物工場に入り、製造に不可欠な織機を打ち壊す。長岡市の小片(おがた)荘平さん(96)が旧制十日町中学校に入学し、最初に経験した勤労奉仕作業だった。「企業整備」という強制措置だったと、後に知った。「立派な機械。気の進む作業ではなかった」と振り返る。

 戦時中、国民学校や旧制中学...

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