
細かく刻んだ大根をご飯にまぜた「大根飯」を作る女性たち=1944年、京ケ瀬村(現阿賀野市)=「新潟県民の太平洋戦争」から
戦時下の日本は、戦闘に関わらない一般国民やその生活を総じて「銃後」と呼んだ。兵隊の送り出し、食料や軍用品の生産など、人々の暮らしは後方支援に組み込まれた。子どもたちは労働力とみなされ、学ぶ機会は大きく制限された。戦後80年を迎え、今では聞かれなくなった銃後を、県民の証言からひもとく。(5回続きの2)
配給でようやく手に入れたおちょこ1杯分ほどの貴重な砂糖。家に持ち帰る途中、誤って雪にこぼしてしまった。戦時中、幼かった長岡市の佐藤満枝さん(88)にとっての、強烈な記憶の一つだ。父親は戦死しており、ろうそくを手に一緒に探してくれた母親は、悲しむ娘を怒らなかった。
戦争が長引くと、輸入経路の遮断や...
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