
世界文化遺産を目指す新潟県の「佐渡島(さど)の金山「相川鶴子金銀山」と「西三川砂金山」の二つの鉱山遺跡で構成。17世紀には世界最大級の金の産出量を誇った。金の採取から精錬までを手工業で行っていた時代の遺構が残っているのは、世界的に例が少ないとされる。」は、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の委員会で7月末に審議される。いよいよ登録に向けた最終段階に入ったが、新潟県は広い。佐渡市以外の県民の中にはピンとこない人もいるだろう。しかし島外にも、佐渡金山とのつながりを示す史料や伝承が残っている。県内各地で見つけた佐渡金山との意外な縁を紹介する。(5回続きの5)
「御金荷(おかねに)」が江戸へ参る際は馬問屋が下稲田で出迎える、到着から出発まで物頭1人・給人1人が御金蔵前の町家に詰める-。上越市には、佐渡を出て出雲崎の港を経て江戸へ向かう金が高田城下に到着した際の、警備のマニュアルに当たる文書が残っている。安全に金を輸送するため、高田藩では厳重な管理が行われていた。
文書「高田町方申送帳(まちかたもうしおくりちょう)」は、直江津の大肝煎(おおきもいり)(地域の代表者)だった福永家に写しが伝わった。藩主が久松松平家から榊原家に代わる際、久松松平家の家臣が1742(寛保2)年に書いた引き継ぎ文書だ。高田の人口や世帯数などと共に、佐渡から輸送されてきた金、「御金荷」が来た際の管理方法が書かれている。
三つの関所を持つ高田藩は、交通の要所だった。上越市立歴史博物館の花岡公貴館長(55)は「北国街道の安全を保障するのは高田藩の重要な役割でもあった。御金荷を迎えるのも大仕事だっただろう」と語った。
文書は現在、...
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