サッカーJ1アルビレックス新潟が、2025年の新たな戦いに向けて宮崎県西都市で1次キャンプを開催しています。アルビレックスは2000年にも、宮崎でキャンプを行っています。25年前の宮崎キャンプはどんな様子だったのでしょうか? 練習試合の相手は韓国の名門チーム。今やクラブにとって欠かすことのできない「あの人」が練習生として参加していました!現在のアルビレックス新潟につながる原点ともいえる2000年宮崎キャンプをプレイバック。ミスターアルビレックス・本間勲さんに当時の思い出や、早川史哉選手への背番号「15」継承などを聞きました!

◆目指せ「攻撃的サッカー」

 悲願のJ1昇格を目指すJ2(当時)アルビレックス新潟は永井良和監督の指揮の下、2000年2月22日から宮崎県のシーガイアエントランスGでキャンプを行いました。

 キャンプ開始早々の24日と25日には、韓国Kリーグの名門「蔚山現代」との練習試合に臨みました。

アルビレックス新潟-蔚山現代(韓国)。前半16分、FW鳴尾(11)が相手DFの激しいプレスをかわして、シュートを狙う=宮崎シーガイアエントランスG

 25日の試合で新潟は前半13分に先制されましたが、21分にFW鳴尾直軌のアシストを新戦力のMFマルコが決めて同点。29分には中央をドリブルで突破したマルコから鳴尾が押し込んで逆転しました。しかし後半、蔚山現代の速いプレスに対応できず2失点。2ー3で敗れ、前日に続き連敗を喫しました。

2000年2月26日の新潟日報

 翌日(2000年2月26日)の新潟日報はキャンプの様子をこうリポートしました。

 新潟のイレブンは宮崎シーガイアに来てから初の本格的にボールを使った練習。状況判断はできるが、まだ体がついていけないプレーが随所に見られた。
 木沢正徳主将は「すべてはこれから。今は課題をたくさん見つける段階ですよ」と余裕を持ち、永井良和監督は「新しい選手の得意、不得意なところは見えてきたが、まだまだ(ポジションは)決められないよ」と話し、このキャンプ中にポジションを決める予定という。

 2000年のアルビレックスは、それまでの「守備的サッカー」から「攻撃的サッカー」へと転換を目指していました。練習試合でエースの鳴尾と新戦力のマルコが早速、連携を披露。来るシーズンへの期待が高まりました。

◆やって来た「練習生」

 さらに、この記事の最後には次の一文が…。

また、キャンプには練習生2人が参加。キャンプ終了後に契約を交わすかを決める。

 この「練習生」の一人こそ、「滝二のラモス」の異名を誇り、現在は強化本部長を務める寺川能人さん!1999年シーズンまでJ1ジェフユナイテッド市原(現千葉)に所属し、宮崎キャンプ合流後の2000年3月2日、新潟入団が正式に発表されました。

就任会見で並ぶ樹森大介新監督(右)と寺川能人強化部長=ビッグスワン

 かつて「練習生」だった選手が、いまやチーム編成を担う強化本部長に。クラブの歴史の積み重ねを感じさせるエピソードです。

◆「ミスターアルビ」も…

 ところで、2000年のキャンプには、後にアルビレックス新潟の大黒柱となる選手がもう一人参加していました。「ミスターアルビレックス」、現在は強化部スカウトを務める本間勲さんです。

現役時代の本間勲さんと寺川能人さん=2007年10月、アルビレッジ

 永井監督は2000年シーズン、新人の本間選手を我慢強く先発で使い続けました。シーズン途中での主力の移籍やマルコの不調などもあってチームは最終的に7位で終わり、永井監督は退任しましたが、この時まかれた「種」が将来、大きな花を咲かせることになりました。 

 2000年の宮崎キャンプは、アルビレックス新潟が飛躍するための土台が築かれたキャンプと言えるのかもしれません。

引退試合で試合後にサポーターに感謝する本間勲さん=2018年7月1日、デンカビッグスワンスタジアム

◆「『15』と言えば『史哉』になってほしい」

 今年の宮崎キャンプを訪れた本間勲さんに2000年当時の思い出や早川史哉選手への背番号「15」継承などについて聞きました!

(25年前の宮崎キャンプの思い出は)...

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