新潟競馬場60周年記念セレモニー=5月、新潟市北区

 好天のもとで行われた新潟競馬場の開設60周年セレモニー。春開催の5月に俳優の風間俊介さんも招いて行われたが、実際にオープンしたのは1965年7月10日のことだ。それ以前、1964年まで新潟市の関屋にあった競馬場についてはこちらの記事で振り返っている。1964年の閉場から60年、姿を消したもう一つの新潟競馬場「関屋競馬場」 今回は、その競馬場が豊栄に移転してからの話。新潟の夏開催を楽しみに待ちつつ、60年前に開場した7月10日に合わせ、新潟日報に残る過去の写真や紙面を振り返ってみた。

おニューの新潟競馬場

 移転の経緯についても、前述の「関屋競馬場」の回を読んでもらいたいが、新たな競馬場が当時の新潟市と豊栄町の境(現在の新潟市北区)に新設され、完成式が行われたのが1965年の5月14日だった。

1965年5月15日付の朝刊
約15億円を投じた新競馬場は国道7号線沿いの松林と砂丘を切り開いた静かな環境にあり、約55万平方メートルの敷地に1周1800メートル、幅23メートルの芝張り本馬場、練習馬場、5千人収容の鉄筋コンクリート造りのスタンド、5百台の駐車場、厩舎60棟などを備えているほか、噴水、子どもの遊園なども付設されている。

 完成直後の写真が残っていた。全体像はこのような感じだ。

 これが当時のメインスタンド。

 写真のタイトルには「おニューの新潟競馬場」という言葉が添えられていた。さすがにお客さんが入っていないと寂しい感じもする。ただ、このスタンドが7月10日には、こうなった。

 大勢の観客で埋まったスタンド。馬群がゴール前なのか、新聞を握りしめたり、頭を抱えたり、いい表情をしている。

 新競馬場となり、県競馬などだけでなく、戦争のために途切れた中央競馬が22年ぶりに復活した。それだけに、新潟日報も大きなスペースを取ってにぎわいを伝えている。

1965年7月11日付
北蒲聖籠村から10人ばかりつれだってきたというおばちゃんー「馬の運動会あるすけ行ってみよれって、来たんですて。馬券? そんげなもん買いませんわね、ワ、ハハハ…」。豊栄町のやお屋のかみさんー「店休んで来ましたて。きょうは店休んで来ましたて。きょうは店休んだ人いっぱいいますえね。馬券ねえ、とうちゃん買うっていうんらろも、ほんとにもうかるもんらばええろもねえ」

 コース場の馬だけでなく、スタンドに“やじ馬”気分で訪れる人も多かったようだ。県外からも競馬ファンが来た。「第1レースの売り上げが770万円、第2レースは820万円。この2つのレースで関屋競馬場での1日の総売り上げにほぼ相当する」という。

シンザンのライバル、メジロドーベルの曾祖母も

 新潟競馬場の再出発となった1965年の夏、中央から名馬も集まった。戦後初の三冠馬シンザンのライバルで、日本ダービーと菊花賞で2着に入ったウメノチカラは、古馬となって初の勝利を第1回の新潟記念で挙げている。

 夏の新潟といえば「新馬戦」と言う人もいるが、この時も後の名馬を輩出している。例えばメジロボサツ。開場の7月10日に新潟デビューで4着だったが、開催最終日の8月1日には新潟で初勝利を挙げた。

第2レースにメジロボサツの名、第8レースの新潟記念にウメノチカラの名がある

 メジロボサツはここから7連勝。朝日盃3歳ステークスも制し、関東の3歳(現在の2歳)王者となる。翌年の桜花賞は3着、オークス2着と1番人気ながら屈したが、繁殖牝馬としてメジロの主要牝系となり、そこからメジロドーベルやモーリスと大物につながっている。

 ナスノコトブキにも触れなければならない。翌年の...

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